3.07.2018

[film] Viskningar och rop (1972)

2月20日の火曜日の晩、BFI Southbankの奥の方にあるBlue Room(まだ行ったことなかった)ていうとこで、トークがあった。

Bergman’s Portraits of Women

前(壇上、というほど広いとこじゃない)にいたのは、Dazed & Confused誌のDeputy editorのClair Marie Healyさん、film journalist, video essayistのLeigh Singerさん、Sight & Sound誌のcontributorのKelli Westonさん、全体の進行はサイト - “I am Dora“(すてき)をやっているJemma Desaiさん。

こういうトークってだいたい各自がそれぞれの思いとかイメージを勝手に語って時間切れになってしまうことが多い気がするのだが、これはなかなか面白かった。「ベルイマンにおける女性」なんて、「ベルイマンにおける神」と同じくらいテーマ的には曖昧ででっかくて、ほぼどの作品にも出てくるものだし、各自のベルイマンに対するイメージや接し方、フェミニズムへの傾斜度合とかでもバイアスかかってくるだろうに。

実際にだいっきらいなWoody Allenが崇拝する監督、ということであんま見てこなかった(でも見てみたらAllenとは違っていた)、という人もいたし、“Male dominated industry“である映画界で50年代からばりばりにやってきたベルイマンに真っ当な女性像なんて描けるもんかよ、とかいう指摘もごもっともだし。

自分にとって面白かったところを切り取ると、常にひとりの女性というよりは女性の複数の声(Polyphony of voices)を描こうとした、ということ。女性に対するObsessionやCuriosity、Incapable of understanding women – のようなところから始まって、結果的に思いもよらなかったようなところ - 当初のありようから(必然でもなんでもなくダイナミックに)変容しているところ - に連れていく – そしてその挙句に女性がこちらをじっと見つめてくるショット –  “Summer with Monika“にも“Persona“にもあった – が出てきて、そういう描き方はAllenやAltmanの映画に出てくる複数の女性 – 常にミステリアスなふうにできあがってしまって微動だにしない女性 - の描き方とは根本的に違っていて、その変容していく像は女性から見ても「わるくない」とか「割とちゃんと描けている」と言えるようなものになってはいないか、と。

あと、溝口の映画における女性とベルイマンのそれは似ていないか、という指摘(...考えちう)があったのと、ベルイマンの作品には女性の仕草や日常を描くことに対する熱狂のようなものがあって、それはFrançois Ozonのそれと似ているのではないか(... うーん、そう?)、とか。

あと、このテーマに関連して60年4月のEsquire誌に載ったJames Baldwinとベルイマンの対話はとっても深くて面白い、と勧められたので読んでみる(Esquireのアーカイブから読める)。もういっこ、Paris Review誌の“What Do We Do with the Art of Monstrous Men?“ - ベルイマンと直截の関係はないけど、Woody AllenやPolanskiのような女性に対して酷いことをした作家の作品にどう接するべきか、ていうテーマの記事(まだ読んでる)。

といったトークの後で、場所を移ってこれを見る。


Viskningar och rop (1972)  -  “Cries and Whispers”

19世紀の古い、なにもかも赤いお屋敷のなかで、Agnes (Harriet Andersson)が子宮癌で死にかけていて、彼女のことをメイドのAnna (Kari Sylwan) が献身的に介護していて、姉妹のKarin (Ingrid Thulin)とMaria (Liv Ullmann)がいて、他に医者とか医者との過去とか彼女たちの幼年期とかいろいろあるのだが、基本はこの3姉妹とメイドの女性4人の繋がりとか相克とか、Agnesが死んでしまうまでのドラマになっている。

相容れない姉妹の物語でいうと”Silence”からの流れもあるし、患者と看護する女性同士ということだと”Persona”からの流れもあると思うが、互いの見えない内面や弁膜のようなもので塞がれ断続的に表出してくる過去といったものは更に抽象度を増して、ひりひりとした苦痛とか自傷の痛みとか断末魔の叫びのみがリアルに耳元に迫ってくる。Silence – Whispers – Cries。その声のトーンやヴォリュームに呼応するかのように神さまは見えたり隠れたり消えたりして、ドレスやデコールの赤があり、黒があり、白があって、そのだんだら模様のなかに寝転がったりしている猫たち。

抽象画のもつ明確な線や面や色、境界とその距離を示しつつも、全体としては不思議とわかりやすい印象が残る、という不思議。どんなときに人は囁いて、どんなときに、どんなふうに人は叫ぶものなのか、そして死んでしまうものなのか、その後の沈黙は、死者への抱擁はなにをもたらすものなのか。
人が死んだあとに残る – 残されるものを描く、という点ではやがて”Fanny and Alexander” (1982)にも繋がっていくのかもしれない。

ただ、ああいうトークのあとだったせいか、あれこれ考えたり気にしたりしながら見てしまったのはよくなかったかも。もう一回まっさらな状態で浸って見たい。決して明るい話ではない、なんだろこれ、の連続のような作品かもしれないけど、なんか惹かれるところがある。 その美しさ? に、だろうか?

わかってないのになに言ってんだ、かもしれないけど。

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