3.22.2017

[film] Singles (1992)

3月20日、月曜日の晩、Prince Charles Cinemaでみました。
Prince Charles CinemaていうのはLeicester Squereの裏手にあるぼろそうな映画館で、ふたつのスクリーンで新しいのと名画座系のをごった煮で流していて、プログラムは毎日変わる。 今晩は”Ghost World” (2001)の35mm上映でメンバーだと£1で見れているし、今週の金曜の晩には”The Breakfast Club" (1985) をやると思ったら、成瀬の「浮雲」の35mm上映なんかがぽつんと入っていたりする。 油断ならない。 70mmとか35mmフィルムでの上映をいっぱいやってて - 昨晩の予告は"Interstellar” (2014)の70mm上映一本だけ - 気になってはいたのだが、ついに足を踏みいれることになってしまった。

先月の"Dirty Dancing"の30周年記念上映だと、あーあ、なのだが、"Singles"が25周年で、とか聞くとちょっとまてふざけんな、くらいのかんじにはなるよね。
で、この晩は,"Singles"の35mm版上映に続けて、"Almost Famous"も35mm、ということでこの並びで、どっちも35mmで見れることなんてもう死ぬまでないかも、と思ったので見てきた。 そんなひま、1ミリだってないのに。

シアターは、昔からたぶん映画館か劇場だったところで、椅子とかぼろぼろで深くて、あんま傾斜がないのがちょっと、なのだが、天井高くて音もすばらしかった。

Singles (1992)
これ、当時劇場では見ていなくて、これが公開された年は自分が米国に渡った年でもあって、当時のシアトル - グランジシーンに対するうんざり、ていうのもあったし、同様にMTVで始まっていたリアリティTV - "Real World"にもうんざりで、おまえらリアルリアルって、ばっかじゃねーの、そんな雑巾みたいに小汚い自分さらして何が楽しいの? ていう典型的な80's vs 90'sのくだんない諍いのまんなかでぶつぶつ言ってて、見る気にならなかったの。 見たのはその数年後にTVで、印象はずいぶん変わって悪くないじゃん、くらいで、そしてようやく昨日の。

この25年で、自分のなかのグランジに対する評価は180度ひっくりかえったし、シアトルにも結構行ってシアトルのひとがなんであんななのかもなんとなくわかってきたし、人って変わるもんよね。 納得できない(したくない)のは25年、てとこだけよね。

という状態で見たので、ああもうこれってすごいいいじゃん、しかなかった。 いくつかのカップル、いくつかのシングルス(空間のことでもある)のくっついたり離れたりのスケッチ、それだけなのだが、Matt Dillonのバンド野郎から彼に惚れちゃった Bridget Fondaから、会社員まで - そして、ああ、Bill Pullman..  - いろんなかっこ、いろんな髪型の人たちがふつうに隣同士で共存してカフェ(まだスタバはない)やライブハウスで会ったりだべったりしていたんだねえ、と。 みんな、孤独を極端におそれるわけでもなにがなんでも結婚を、でもなくて小汚さもそこそこあるけど、あれはただ無頓着なだけで、そこらの猫みたいにスペースが空いたらそこに座る、そんなもんなんだよね、って。

で、それらの雑多な愛すべき人たちとかいろんな音たちを天使のように包んでくれるのがPaul Westerbergの音楽なの。 彼の音だからこそできた芸当、かもしれない。
なにが流れてきてもどれもこれも名曲にしか聴こえないの。

なんかね、この頃、この映画で描かれたような(ある意味)理想郷って、いまはどこにあるのか、誰が描くことができるんだろうか、って。 それくらい遠くに来てしまったかも感があって考えさせられた。 それが25年ていうことだ、なら黙る... か、でも黙っちゃいけないよねこれ。 なんで右向いても左向いてもディストピアとか格差とか壁とか、そんなふうになっちゃったのか。  テクノロジーを使ったソーシャルななんか、が出てきたあたりからだろうか。 ここでのテクノロジーなんて、テープ使った留守電とか、車庫のリモコンとかそんなもんで、それでじゅうぶんだったのにね。

Richard Linklater の”Slacker” (1991)との違いについて考えることに意味はあるだろうか。
たぶんある。

終わったとこで、まばらな拍手。 そうかここはロンドンだった、と。


Almost Famous (2000)
これは2回めに米国に渡る直前くらいに劇場でみた。 この頃のCameron Croweは既に自分のなかでは巨匠だったのでなんの問題もなかった。

ロックライターとしてそのキャリアを始めたCrowe自身の自伝的な作品、というだけでなく、大人になる、ということと子供の音楽としてのロックがいかにして大人のそれになる/なりうるのか、という成長のはなしと、そこに産業としてのロックの興隆も絡めてダイナミックに描いている。 たしかにこうだったんだろうな、としか言いようのない説得力があるという以上に、はっきりとあの時代に向けた彼のラブレターでもあって、それがだらしない自己撞着にぶつかることなく真正面からロックの普遍性と可能性を語っていて、ぜんぜん異議なしである、と。 嫌だったのは邦題だけで、いまだにクソだとおもうわ。

35mmだとほんとにカラーが美しくて溜息ばかりだったのだが、その溜息すらも止まってしまったのがPenny Lane - Kate Hudsonの尋常じゃない美しさで、眩しすぎてとんでもないとおもった。  Emma StoneもJennifer LawrenceもここでのPennyにはかなわないだろう、くらいのすごさ。 番外編でモロッコに渡ったPenny Laneのその後、とかやってくれないかなー。

あと、Cameron Crowがその後も地味に追い続けているアメリカの家族の姿、の最初のかたち、がここにはあるの。(パパが弱かったりいなかったりママが強かったりいなかったり、いろいろパターンはあるけど、でも娘だけは不思議とぜったいかわいいの)

あと、Billy Crudupは、63年の”Jackie” 〜 73年のこれ 〜 79年の”20th Century Women”でいちおう筋の通った生き方をしている気がする。

終わったとこで、こっちは大拍手だった。
エンドロールで流れる”Feel Flows”がまた泣けるのよね。

ライブから帰ってきたところでふらふらなのだが、いまFilm4のチャンネルで”Boyhood” (2014)の最後のとこをやっていて、ううむ、て思った。ぜんぜんあたまが回っていないのだが。
とかぼーっとしていたら”Boyhood”は終わって”Hot Tub Time Machine” (2010)が始まってしまった。やばい。作業にかからねば。

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