3.02.2017

[film] Jackie (2016)

2月26日、日曜日の昼、Dulwichに行ったあと、Central Londonに戻ってCurzonのVictoriaでみました。 ロンドン中のCurzonを制覇してやる予定。  これもこっちではもう終わっちゃいそうだったし、オスカー絡みで、なにかの賞を獲ることはなさそうだけど、ねんのため程度。でも。

ケネディ暗殺のあと、マサチューセッツで隠遁しているJackie (Natalie Portman)のところにジャーナリスト (Billy Crudup)が訪ねてくるところから始まって、夫を失いホワイトハウスからも追われてしまった彼女がジャーナリストに自分のことをどう書いてほしいのか、どう書かれるべきなのか、それはなぜなのか、などを淡々と語る。
その語りを通して彼女の頭に去来する過去から事件当日のこと、その後のいろんなことが時系列はあまり関係なしに綴られていく。

華々しいパレードの最中、目の前で最愛のひとの脳みそが吹っ飛んで自身も血まみれにされ、夫はそのまま静かに隠れるように逝ってしまい、夫の後任は機械的に即座に決まって宣誓がなされ、住んでいたホワイトハウス - TVで宮殿のような調度の数々を誇らしげに紹介したばかり- も出ていかなければいけないし、葬儀だのなんだのいろんな手続きも自分の意思とは関係なく自動で決まって動いていってしまう、こんな異常で不条理な経験のどまんなかにたったひとりで置かれ、同時にその様が世界中に曝されてしまった彼女のサイコドラマのように展開する。

彼女のそもそものキャラクターや人格、ファーストレディーになるまでの経緯や大統領との絆やどんなふうに立ち直っていったのか、といったふつうの人物評伝のかたちを取らず、カメラマンの脳と目に彼女が憑依してしまったかのような異様なクローズアップにいろんな明暗・肌理の不安定な映像等、こんがらがった隘路に入りこんで抜けられなくなった/囚われてしまった彼女のエモの彷徨いがまずあって、そこに空気穴を空けるかのように、夢から覚ましてあげるかのようにプリースト(ああJohn Hurt... )が扉をたたき、ジャーナリストがメモを走らせる。

たぶん、Sofia Coppolaが"Marie Antoinette” (2006)でやったような方法に近い、気がしないでもないのだが、いろいろ忘れているところも多いので確かめようがないわ。

このサイコドラマの根幹を構成するのはなんといってもMica Leviの音楽で、最初のほうのむっちり鰻のように艶やかにしなる変なストリングスから、決して豪華絢爛なほうにいかないオーケストレーションまで、それはJackieのあたまの中でわんわん鳴り続けている悲鳴に近い音そのもののように聞こえてくる。 画面とは別に音楽が後から届いた、というのがちょっと信じられないくらい。
そして最終的には(祈りをこめて)甘い"Camelot"の楽曲に総括され象徴されるふたりの愛の神話 - でもそれもまたなんと砂糖菓子のように儚いものであったことか、と。

このときJohn F. が亡くならなかったら、99年にJr. の飛行機が落ちなかったら … というのはいまだに考えてしまうことなのだが、これを見ると改めて思ってしまうのだった。 歴史ってさー。

63年にあんなにかっちり貴族のようななりをしていたGreta GerwigとBilly Crudupが、79年(”20th Century Women”)にはあんなによれよれのぐだぐだになってしまう。 これも「アメリカ」の恐ろしいところだねえ。

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