3.27.2017

[film] Kedi (2016)

今回のNY滞在は3泊だけで、うち2夜分くらいはソーシャルななんかで埋められていたので、可能なかぎり早めに終わらせてすたこら仕事の場から逃げたいのだが、それでも映画1本見られればいいか、くらいで、ではその1本とは、となると今回は問答無用でこれしかなかった。 トルコ・イスタンブールを舞台に"Logan"並に爪とRoarが炸裂する猫ドキュメンタリー映画。

昨年に行くことができたMetrographで予告を見て一目惚れして、なんでこんなのが単館なんだよう、と憤慨しつつもお願いだから終わっちゃいませんように、とお祈りしていたやつ。 米国の配給はOscilloscope。

"Kedi"はトルコ語で「猫」ね。  もちろん。

筋はあってないようなもんで、イスタンブールの町中で暮らすいろんな(ノラ)猫を個々に紹介していって、そこにそれを見守ったりして暮らしている(ノラみたいな)ヒトの声が被さる。個々の猫に危機が迫ったり悲しいこととか奇跡とかが起こったりすることも、猫がしゃべったり助けあったり、感動を運んでくれたりすることもなく、ただ猫は猫として市場で魚を拾ったりのしのし歩いていったり好き勝手に群れているだけで、ヒトの声もものすごく適当にこのこはーあのこはー、と適当なこと呟いているだけ。 かわいらしい音楽や効果音をわざとらしく被せることも、音がぴーん、とかマイナーになって悲劇が訪れたりすることもない - あのやりかた、すごくバカみたいでやなんだけど。

といわけで、ノラ.. というほどノラではない、魚市場があったりする町のなかで適度な距離を置いて猫っぽく暮らす猫と人同士の繋がりよりは猫の方に少し寄っている人との関係がやや猫よりの目線で描かれていて、猫の動画をみるとあたまのなかで、にゃー、とか言ってしまう人が見ると、ずうっとにゃーにゃーうるさくて困るのだが、全体はものすごくあっさりめ、でも地に足のついた素敵な猫映画だとおもった。 

あたりまえだけどノラといっても一括りではなくて、いろんな毛並みのいろんな性格のやつがいて、それぞれに固有の行動パターンのなかで周りに少しづつ認知されたり怒られたりつつサバイブしている、それってヒトと同じで肝心なのはやっぱり支えあい助けあい - みたいなとこにはいかない。 わかるだろ、くらいのかんじ、そんなのべつに猫は知ったこっちゃないけど、くらいの緩い距離のとりかた。  その距離感にだけは細心の注意を払っているような。 ここは「かわいい〜」なんてまったく通用しない世界なんだと。

世界から猫が消えたなら?  勝手に夢みて泣いてろヒマ人。 

我々はもちろん、今のトルコの情勢がよくないことも、あれだけ猫がいれば日々悲しいことが起こるであろうこともわかっている。 わかっていてあそこまで淡々と猫と人を切りとれるのってよいなー、って。 そして、これはこれでひとつの抵抗のかたちにはなりうるのかもと思った。甘いのかもしれないけど。

そしてこういうのを見たあと、最大の溜息と共にでてくる感想はひとつだけ、猫になりてえ、しかないの。

終わって、上の階の本屋で、”Suite for ”Barbara Loden” (by Nathalie Léger)ていう小さな本を買った。
本屋の横にあるダイニングは11時過ぎてもわいわい賑やか(でも大人ふう)で、ああ近所にこんな映画館があったら、はこの前も思ったことだわ。

ロンドンでは町中であんまり猫みないなー。  と思って歩いていたらこないだ大英博物館の横でキツネ(ナマの、きつね色の)にぶつかって、少しうれしかった。

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