8.12.2016

[film] La maman et la putain (1973)

7月30日土曜日の昼、アテネ・フランセの「「ポンピドゥー・センター傑作展」関連企画のフランス映画傑作展 」で見ました。
夏休みでわーわー遊んで帰ってきたばかりでへろへろなのに、220分のに耐えられるのかという心配はあったが、なんか見れてしまった。

『ママと娼婦』。英語題は”The Mother and the Whore”。 これまで見たことなかった。

Jean-Pierre Léaudが主人公の僕 - Alexandreで、最初のところで元カノと再会してよりを戻そうとするが突っぱねられて、カフェにいた女の子に声を掛けるが逃げられてしまう。 Alexandreは仕事をすることもなくいつも同じ服恰好で、ブティック経営をしているMarie (Bernadette Lafont)のところに居候していて、日中は友だちと会ったり女の子を探したり、みたいなことをしている。
やがて逃げられた女の子は看護婦のVeronika (Françoise Lebrun)であることがわかって、だんだんに仲良くなって、やがてMarieの部屋にも頻繁に来るようになって、3人の奇妙な関係とか生活とか、がはじまるの。

筋としてはこんなもんで、ものすごい事件が起こって3人の関係がどうにかなってしまうようなことはない。
もちろん我々は、このドラマが監督ユスターシュ本人の身の回りに限りなく近いあれこれを取りあげていて、Marieのモデルとなった女性はラッシュを見て自殺してしまうし、ユスターシュ自身も81年、42歳で自殺してしまうことを知っていて、そこら辺で68年のパリの後を生きなければいけなかった「痛ましい」、「失われた」青春の云々と言われたりすることがあるのを知ってはいるのだが、映画のなかには淡々と日々の出来事 - どこそこで誰にあってなにをしたどんなことをしゃべった、けっか変わらずひとり、みたいなことしか描かれていない。 もちろん男ひとりと女ふたりが同じ部屋にいて、うちふたりがあれを始めてしまったりすることで険悪になったり修羅場みたいになったり、ということはあるのだが、それって犬猫だって同じことは起こるよね、みたいな定点観測・放置っぷりで、それは彼が悪いよね、とか、解りあうためにはこうしなきゃね、とか、やっぱり別れるしかないんじゃないか、みたいな方向には転がっていかない。 3人はそれぞれがそれぞれの居場所のなかでなんか言ったり喚いたり泣いたりするだけで、そこに新しいなにか、おもしろいなにかが映っているとは思えない。
では、なにがそんなにおもしろいんだろう、と。

タイトルの「ママ」と「娼婦」は、Alexandreの目からみて、彼自身が彼女たちに対してつけたあだ名のようなもので、ママはたまに怒ったりするけどなんでも受け入れてくれるMarieで、娼婦は求めに応じて誰とでも寝てしまうようなVeronikaで、実際にそう、というよりもAlexandreからするとそう見える、そう見えてしまう場所と時間と意識の上にこいつはいて、脱色されたような日々が無為に流れていく。それを痛ましいとかきつそうだとか、言うのは勝手だけどあまり意味があるようには思えない。 ロメールの場合はこれと同じようなことを浜辺とかリゾート地を舞台に、すこしだけ裕福ぽい人たちの間で教訓話のように展開しているだけ、のような気もした。

それぞれがそれぞれのことをどう思っているかなんてわかりようがないしどうでもいいし、ていう相容れなさと、他方で親密さと欲望と愛と、それらはどうあがいても調和しないし和合しない。 それだけのこと、を切々と、べらべらと言い続けるだけの220分。 こういう形の前に行かない、横並びの青春(諦めと苛立ちの合間でぶれまくる精神のありよう)は、5月革命云々とは関係なく、こちらと地続きなのだとおもった。

教訓とか格言とか以前に、どうしようもなくしょうもない、のだけど。 でもそういうもんなんだからしょうがないじゃん、という。

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