8.01.2016

[art] diane arbus : in the beginning

もう8月になってしまった。  … 亡命したいよう。
NYの美術館関係のあれこれをどうするか少し考えたが、時系列で適当にまとめて出すことにした。

22日、金曜日の午前のやつから。
全体に時間がなくて、朝いちばん早くにやっているのはMetropolitan Museum (MET) だったのでとりあえず、という感じで行ったのだが、観光シーズンだった..
10時前に行って入場の列に並ぶ、という初めての経験をした。 以下、見た順に。

Turner’s Whaling Pictures

METの5thでいちばん見たかったやつ。 でも展示は小さな部屋ひとつでこじんまりとやっていて、展示されている絵はMET所蔵の1枚とTateからの3枚のみ。 海に向かうTurnerは鯨と鯨捕りの人たちをどう捉えたのか、というのがひとつ、もうひとつはこれらの絵(1845 - 46に描かれている)はMelvilleの「白鯨」の描写に影響を与えたのかどうか (白鯨の出版が1851年、Melvilleはロンドンを1849年に訪れている)
影響与えた与えないはもちろんわからないのだが、Turnerの絵の乳白色の靄の奥、向こうになんかでっかいのがある/いる、言いようのない力が蠢いている、という印象がMelvilleのあの小説の不気味さになにかを与えたのだとしたら、とっても興味深いし、おもしろいことよね。
小さい冊子買った。

Court and Cosmos: The Great Age of the Seljuqs

館内を移動する途中にばたばたと通過した程度だったが、11世紀から13世紀頃までのセルジューク朝の繁栄、その広がりを遺跡に遺されたいろんな欠片、彫刻、衣装、貨幣、天体観測器、本、などなどを通して包括的に概観する。 
当時の人々にとっての世界、世界観まるごとぜんぶ、金箔張りのコーランとか歌の本とか、(周囲に誰もいないので)とても敬虔な気持ちになる - けどばたばた次に行く - ごめん。

Crime Stories: Photography and Foul Play

これも小さい部屋での展示を通りすがりに。
犯罪現場、犯罪者を記録する道具としても機能していた写真初期の1850年代から現代まで、写真にとって犯罪、悪いことをしたひと、はどういう意味をもっていたのか、とか、これらはどうやってアートになっていったのか、とか。
写真は有名無名のいろいろ - Richard Avedon, Larry Clark, Walker Evans, Weegee, Andy Warhol, などなど。
個々の構図がどうの、というよりも、ずらりと並べられた面構えが圧巻で、しかもみんなほんもんの皆さんなので、ちょっと怖くなった。

Manus x Machina: Fashion in an Age of Technology

毎春恒例のCostume Instituteの特集展示。Costume Instituteのいつもの場所にいったらそこではやってなくて、慌てて戻ったりしてしっかり時間ロスした。 ちゃんと確認しとけ。

入口にばばーんというかぎんぎんに飾ってある(20フィートに渡ってびろーん)Chanel (Karl Lagerfeld)によるWedding Dress (2014)、手か機械か、は別として一見の価値あり、ということだと思うが、どうかしらあれ。
Wedding Dressを鎧(示威行為)のようにみるか、お花畑(ファンタジー)としてみるかの違いとかもあるのかも。
個人的にはSomerset Houseで見たValentinoのとか、V&AでみたVivienne Westwoodとか、ここの展示でいうと全身毛玉に毛玉を重ねたみたいな手編みのIrishのWedding Dressのほうがよかった気がした。

テクノロジーの時代におけるファッション、ということで、手 - hand (manus) vs 機械 - the machine (machina)か、という二項対立、というよりも、いまはどっちみちMachinaしかないのだがら、MachinaでどこまでかつてのManusの領域に行くことができるのか、というのが主題のように思えて、では、はて、それって果たして美術館で考えるようなことなのだろうか、と。

たとえば、Machinaによる20年代のChanelの寸分違わぬ見事な再生仕事も展示してあって、それってもうオートクチュールでもなんでもない、パターンも、その組み合わせも、サイズ調整もぜんぶ思いのまま、そんなの別にニーズに応じてやれば、というだけのこと。

で、それをなんで美術館で、というと、まさに、だからこそ、美術館問題なのだな、というのがわかってくる。
"Manus"の介在する余地がなくなったとき、「アート」はどこにいってしまうのか、という例のいつもの。


ここまでがMET 5th Avenueで、そこから歩いてMET Breuerに行った。 とにかく暑くて、Madison Aveを隔てた反対側のSant Ambroeusのアイスクリームを食べたくてたまらなくなったが時間がないので我慢する。

旧Whitney美術館がMETの分館として建物の設計者のMarcel Breuerの名をつけて蘇ったのは本当に嬉しくて、岩のなかに入ったかのようなひんやりしたエントランスも、でえっかいエレベーターも前のままだし、階段の踊り場の隅にあった変なアート(だよね、あれ?)も残されていた。 よかったよかった。 やってた展示はふたつ。
どちらもおもしろすぎて悶絶。

diane arbus : in the beginning

2005年にMETで行われたDiane Arbusのレトロスペクティブ - “Revelations"はじつに見事なものだったが、この展示は彼女のキャリアの最初期、Diane ArbusがDiane Arbusとなった最初の7年間 - 1956から1962年に撮られた写真にフォーカスした展示。
これらは2007年に彼女の娘たちから寄贈されたもので、"Revelations”のとは余り被っていない。

ほぼ全て同じサイズ/判型のモノクロ、NYのいろんな場所で撮られたいろんな人達、風物。ものによっては少しボケていたり、後の彼女の写真の登場人物が示す輪郭の強さ/存在感には届いていないのだが、被写体に寄せる眼差し(= 被写体がこちらを見つめる目の強さ)は既に彼女のものとしか言いようがなくて、カメラを抱えて彼らにひとり向かい合う彼女の震えと緊張感が伝わってくる。それらに囲まれているとざわざわしたNYの雑踏や臭気まで漂ってくるようだった。

初期のデモ音源、そして/しかし既に彼女の歌声はじゅうぶんにできあがっていたのだと。
カタログ買ってしまった。

Unfinished: Thoughts Left Visible
Diane Arbusから上に階段のぼって、2フロアに渡って展開されていたやつ。 うわー、としか言いようがない。
古典からモダンまで、未完に終わったんだか、未完になってしまったんだかの作品ばかりを集めている。
絵画だけでなく、彫刻も、オブジェも、インスタレーションも。 習作、デモ、失敗、放棄、どう呼ばれようと事情はそれぞれだろうし、会場にはBarnett Newmanの言葉 - “The idea of a ‘finished’ picture is a fiction.”も貼ってあったりするのだが、「問題」はとにかくおもしろすぎる、こんなにおもしろくていいのか、ということに尽きる。

ふだんの展覧会で「完成品」を追うときの目線や思考の経路とはぜんぜん別の思念がこれら「未完成品」の前では渦を巻いてて、でもそれってなんなんだろう、と。 絵が「未完」とされた途端にanother/alternative viewが起動されるのだとしたら、「未完」ていうのはただのラベルにすぎないのか? とか。 変な譬えだけど、食べかけのご飯を見てどれくらいおいしいものかを推測する愉しさ、というか。
食べかけ、齧りかけの生々しさ、というのは「完成品」にはあまりないやつかも。

有名なLeonardo da Vinciの”Head of a Woman (La Scapigliata)”から、沢山のRembrandt、Poussin、Rubens、Tiziano、Velázquezなどの古典、Manet、Corot、Cézanne、Picasso、Morisotの”Reading” (すてき)、Lucian Freud、ぐりぐりのKlimt 、Elizabeth Peytonの"Napoleon"、Turnerは部屋がひとつ用意されているのだが、もやもやすぎてなにが未完だかさっぱりわからないおかしさ、途中で飽きちゃったのかPollock、貼りテープが生々しいMondrian、Friedrichまであったり、これもよくわからないCy Twomblyとか、日本からは草間彌生とか宮島達男とか。 とにかくほんとにいっぱい。 完成品と比べたらこっちのほうが数は断然多いのだろうけど。 
これ、常設にしたっていいのではないか。... ないか

カタログは散々悩んで、やめた。

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