10.21.2011

[film] Comment je me suis disputé... (ma vie sexuelle) (1996)

シネマヴェーラではじまった特集『フランス映画の現在』。 日曜日の1本。 178分。
『そして僕は恋をする』。 英語題は"My Sex Life... or How I Got Into an Argument"。

この作品は、90年代に米国でみた。"My Sex Life...”ていう英語題に惹かれて行ったのだが、当時は英語字幕に慣れてなくて見事に轟沈した。 そういう苦い思い出を胸に改めて「恋」に向かいあってみませう、と。

博士論文を提出できないままずるずる大学で哲学の講師を続けているPaul(Mathieu Amalric)の職場の主任としてかつての同級生(犬猿)が赴任してくる。がーん。 で、ずうっとつきあってきたEsther(Emmanuelle Devos)との仲はもうぼろぼろで、別れるしかないか、みたいなところに来ている。

仕事もだめ、恋もだめ、将来の見通しもあんまし、そんななか、ぶつぶつ言いながらもSylvia(Marianne Denicourt)とかValerie (Jeanne Balibar)とかとつきあったり、Patricia (Chiara Mastroianni)のお尻に見とれたり、でもEstherの面倒もみてやらないと、とかじたばたしまくる日々。

なんで自分はいろんな女性に恋をしまくるのか、なんで自分はしょうもない屁理屈こねて言い争いばっかりしているのか(How I got into an argument)、という中盤あたりまでに積み重なっていく問いが、Estherの「Paulが死んじゃったのよ!」という叫びによってきれいに反転する。 
(その前に死んじゃっていることはわかるのだが)
もうすでにいないPaulの魂を通して語られる、かつてそこにいて、恋と哲学のなかに生きていたPaulの姿。落ちつきなく走り回ってばかりいた彼が、別の影と輪郭をもってそこに現れる。

それはジョギングの最中に全ての存在が真白になって立ちすくんだり倒れたりしてしまう彼の姿とも重なる。
生の直中に全てが突然ブラックアウトする、あるいはホワイトアウトする瞬間、その不安、あるいは確信。

後半はEstherのなかにいる、でも間違いなくそこにいるPaulが繰り返し彼女にいう。 
円熟なんかするな、恋をしろ、きみはきみなんだよ、と。 Estherは泣いて、笑うしかない。 

そして、それでも、これはPaulの恋のお話し、何度でも始まる、走りだす恋のお話しで、だから「そして僕は恋をする」のね。 Mathieu Amalric以外にこれを演じられるひとがいるとは思えない。

とにかく出てくる女性はみんなほんとにすごい。みんなエゴまるだしで、癖だらけで面倒そうで、でも彼女たちもまた、はっきりとそこにいるのだよね。 その、それぞれの存在感がものすごくて、どっしり成熟してて、でも(それ故に)Paulはふらふら吸い寄せられていくのね。

Emmanuelle Devosはやっぱりとてつもない。 彼女がひとり外の空を見上げるシーンでラヴェルの"Daphnis et Chloé" がぶわーんと被さってくるところ、わけもわからず興奮する。 あれなんだろ。
("Kings and Queen"の"Moon River"(2004) もよかったねえ、そういえば)

で、これだけの濃さをもった、最後の、決定版、としか思えないように分厚い恋愛映画を作ってしまうと、あとは「家族」のほう - 最後の厄介者 - に向かわざるを得ないのかな、Arnaud Desplechinとしては。

音楽はPJの"C'mon Billy"をはじめ、Jazzからヒップホップから、ほんとにあらゆる音楽が流れる。
青春映画のざわざわしたかんじもたっぷりある。

これって90年代ていうディケードの軸で見るとどうなのかな、と少しだけ。 あるのかないのか。

あとは、カメラのEric Gautierもすごいの。
女性の腰から脚にかけてのラインを追っかけることに関しては天才、としか言いようがない。
たんに、Arnaud Desplechinがすけべ、ということだけなのかもだが。

今回の特集ではかかりませんが、久々に"Esther Kahn" (2000)が、すごくみたいよう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。