11.07.2023

[theatre] National Theatre Live: Good (2023)

10月22日、日曜日の午後、Tohoシネマズ日本橋でみました。『善き人』。

原作はスコットランドのC.P. TaylorがRoyal Shakespeare Companyの委託を受けて書いた同名戯曲 (1981)をDominic Cookeが演出して、Harold Pinter theatreで上演された。

Viggo Mortensenが主演したという2008年の映画版は見ていない。

舞台には奥が角でどんづまった牢獄のようにも見えるなにもない寒々しい部屋がひとつ、登場人物は男性2、女性1だけなのだが、彼らの演じるキャラクターは場面転換など無しに人物、年齢、役割などがころころ切り替わっていくし、それらは背景の音楽や照明が変わることでわかったりもするのではじめは混乱するのだが、戦時下で人格が歪んだり潰されたり豹変したり切り替わっていく - 誰でも誰かに代替可能 - という怖いテーマからすれば、そういうもんかも、になったりする – そしてそのペースに慣れていくのもうすら怖い。

1933年(ヒトラーがフロントに)から1941年(アウシュビッツが作られる)頃まで、約8年間のドイツ - フランクフルトで、文学教授のHalder (David Tennant)と妻Helen (Sharon Small)とユダヤ人の友人Maurice (Elliot Levey)の3人がいて、この3人を(いちおう)中心に置いて、それぞれが官警や役人や義母や恋人や浮浪者などに切り替わったりしながら、時代の節目にどこかの町や家の片隅で行われていたに違いないやりとりをコントやスケッチのように並べていく。そのどーってことのなさそうな蓄積がまさかあんなところまであっという間に行ってしまうまで。

はじめは誰もがヒトラーに懐疑的であんなの.. って思っていたしユダヤ人の扱いについてもすぐ傍にいるのだから悪い冗談としか思えず、まさか自分だけは… そんなふうに緩く適当に受けとめていると本を焼かれたり家に踏みこまれたり水晶の夜を通過したりしていくなか、Mauriceと一緒にいるわけにはいかなくなって、さらに気がつけばHalderはSSの制服をぎこちなく身に纏っていたりして。

David Tennantの一見温厚そうな知識人の佇まい、ちょっと呆けて遠くを眺めて固まってしまう虚無の表情と、同様に時折ロボットのように見せてしまう所作をはじめとして、このキャラクターに応じた変わり身、それに伴う台詞回しの変更をスムーズにこなしていく俳優たちの動きと演技は驚嘆すべきものだと思う反対側で、これと同じように、組織の長やお偉いさんやお得意様が現れた途端に豹変してしまう変な男たちっているし、そういう連中が重用されたりするのも見ているので、あーあそこにいたあれらか? とも思ったり。

Halderは「善き人」であろうとしたのか? というと、ベストセラーになった本『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を思いだしたりもするのだが、何/誰にとっての「よい/よき」と言えるのか、のありようが異なるのであの本のと単純に比べてはならない、と思いつつも、それを「よき」と認める「こと」なり「人」なりに向かうときの思慮の浅さというかてきとーさは同じようなものなのかも。そうやって認められた「よき」ひとはそれと同じ軽さと速さで「わるき」ひとを選別しようとするだろう。それが「よき」ひとと認知される要件のひとつであればなおのこと。

そして、文学の教授でもあるHalderは勿論そんな簡単に「よき」ひとになるつもりはない。むしろそんな表面的な「よき」を回避したり鼻で笑ったり嫌悪したり、そうしていくうちに周囲にガスのように充満してくる悪に無感覚になっていくのと、そのすぐ横に見えるなんとなく幸せで楽な生活とか、そこに絡みつく虚栄心とか出世欲とか、これらがダンゴになって誰も抵抗できないままに転がり落ちていく、それを恐ろしい、と見るか、周りがみんなそうだしそれはそれでよいのでは – “Good”. と言ってしまうか。 結果、なにがもたらされたのか、と。

今だと、ここに黙っていても大量に流れてくる情報の量とか質とかそれらの操作とかが入ってくるので、「よき」「わるき」の峻別とか判定はワンクリックの相対的なものにしかならなくて、でも人権も正義もそういうどっち側? っていう線引き綱引きなんかではないのだ、って何万回言ったら….

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