11.05.2023

[film] Numéro zéro (1971)

10月21日、土曜日の夕方、日仏学院のJean Eustache映画祭で見ました。 『ナンバー・ゼロ』。

この作品でこの夏から秋にかけて紹介された彼の作品はひと通り見たことになった。のだが、まったく全部見たかんじがしていない(まだ他にもいっぱいあるし)。彼のフィルモグラフィーを全て制覇すれば、とかそういう話ではなく、彼の映画に向かう姿勢のようなものが少しでも見えてしまった以上、彼の映画を「見た」などと軽々しく言えなくなってしまう、それくらい饒舌にべらべらいろんなことを言ってくる(だけの)映画、だった。例えばロメールの映画も登場人物たちはあーだこーだ喋りまくるのだが、それはストーリーを展開させたり彼ら自身を動かしたりするためのもので、でもEustacheの映画におけるお喋りは誰をどこにも動かしたり連れていったりするようには見えない。 彼らは自分(たち)がいまどんなふうで、なぜここにこんなふうにしているのか/あるのか、その足元をひたすら喋ったり示したりしている、ような。その語りのなかには自分のことだけでなく世界まるごとの歴史や経験も含めてぜんぶあって、我々はそれが照らしだすまるごと全てを映画館の暗がりにうずくまって見る。

このお話は、Jean Eustacheが彼の祖母Odette Robertの語る彼女の半生を2台の16mmカメラを据えて切れ目なしに収めている。祖母がウイスキーを飲んでタバコを吸いながらカメラ(というよりEustache)に向かって喋り、向かいあうEustacheが背中を向けてほぼ黙って話を聞いて、フィルムのリールが切れてカチンコで次に繋ぐところも含めて撮って、要は彼女のいる時間が一瞬でも消えていなくなることのないように配慮されている。配慮、というよりそうやって持続・継続して彼女と共にある時間がそもそもの姿なのだと。

これは通常のドキュメンタリー、とも違って、確かにそこにいる女性はOdette Robertという名の実在した人物なのだろうが、彼女の語りが示す出来事や人間関係に具体的かつ客観的な確かさは一切なく、その証拠らしきものも示されない。

Eustacheが幼い頃からあんなふうに何度も聞いてきたであろう(Odetteの)義母の意地悪な話などはただの法螺話であってもおかしくはなくて、例えば - 比べられるものではないが - ワン・ビンの『 鳳鳴 中国の記憶』(2007)の老女の語りが描きだす凄惨さとか、Frederick Wisemanのドキュメンタリーでお仕事や活動について喋りまくる人々のそれとも明らかに違うし。ここで問われているのは語られる内容の確かさとか精度とかそれがもたらす共(生)感、などではなく、それによって明かされる彼女が生きた時間の不思議さ、その共有が導いてくれるかつてあった時代のフランスの田舎の生活の像のようなもので、そうやって現れてくる世界こそがすべての礎ではじまりで、だからそれは「ナンバー・ゼロ」 - 足しあわされていくことすら拒む消失点、のようなものとしてあるの。

こんなふうに示される世界のバリエーションが併映された彼の遺作『アリックスの写真』(1980) で説明される写真の数々で、ここで取り上げられる写真たちも何ひとつ確かな「現実」との接点や連関を持たないまま、でもはっきりとその輪郭を、そこにいた写真家と彼女に撮られた対象とそれを見て聞くもうひとり、というトライアングルのなかで示して揺るがない。フィクションだなんだ以前に世界はまずそうやって現れるのだ、というのと、映画はそこから始まる - その扉をノックするように - ものなのだ、というのと。

ただそうやって囲われる対象がぜーんぜんつまんない(とはどういうこと? というのはある)そこらの人だったりするとうまくいくとも思えず、その点でOdette Robertによる語りの確かさとおもしろさ - 日々戦争のようなサバイバル劇 - は揺るがなくて、すごい人を見つけたもんだな、っていうか、この魔法のような語りの技に幼時から晒されていたことが映画作家Eustacheを作ったのだろうな、くらいは思う。

あと、語り手が女性であること、というのはあるのだろうか? そんなの偶然に決まっているのだが、『ママと娼婦』にしてもこれにしても彼の目線は最初からそこ、と揺るがずに決められていたのではないか、とか。

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