11.13.2023

[art] 奈良美智: The Beginning Place ここから - 他

10月の最後の週から11月の最初の週、長めの休みを取っていろいろ見てきたのでメモ程度に。

生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ @国立近代美術館

この翌日の青森に行く前に。子供の頃からどこにでもあった彼の素朴で暖かめの版画、のイメージから離れたアナーキーでダイナミックな雲(ときどき雷)のような作品群。この雲のうねりを彫りたかったのではないか。 ホイットマンの『草の葉』の柵がよかった。

3階での小企画『女性と抽象』もすばらし。見る機会のなかった桜井浜江や藤川栄子をはじめ、他にももっとあるはず、もっと見たい、になる。いつか大企画に引きあげられますように。


奈良美智: The Beginning Place ここから @青森県立美術館

これまで自分が行った日本の北限は猪苗代湖くらいで、このぶんだと北海道もいけないまま一生を終えることになる気がしたので、10月30日、青森までがんばって日帰りしてみる。

奈良美智の作品に最初に触れたのは90年代の米国で、二本の脚で踏んばっているように見える少女はこちらを睨みつけて手にナイフを握っていた。(少年ナイフの米国でのブレークもあり)

今回の回顧展的、と言わないまでもいったんの区切りと思われる展示のポスターで、少し成長したように見える少女(おなじ女性だろうか?)の像は上半身のみでこちらを見て佇んで、その目には涙を浮かべていて、服はP.クレーの暖色のだんだら。表明はもうかつてのように怒っているようには見えない。力尽きたのか訴えているのか祈っているのか絶望しているのか、もちろんそれは、こうなってしまった、という話ではなく、いまの天気や季節や世界がそうさせているのだ、というだけのこと、なのかもしれない。他方でタイトルは”The Beginning Place”であり『ここから』 - ここを起点として始まる、起ころうとしていること、であると。たぶんおそらく、絵や彫刻に向かう手前のぬかるんだ世界のありようについて、いまの時点から振り返ってみれば、という定点観測なのではないか。いまから10年後に行われるかもしれない『ここから』はまったく別の表情を見せるに違いない、そんなものでよいのだ、というところも含めた風通しのよさ。

そして、背景がブランクであることが多い彼の作品で、彼女たちはどんな場所で踏んばったり仁王立ちしたりしていたのか、あるいは、そのナイフはどんな部屋で研がれ or その叫びはどんなレコーディングスタジオで録られようとしていたのか、部屋 - “I Want to See the Bright Lights Tonight” (1974)のジャケットのように窓が濡れている部屋 - 掘っ立て小屋やロック喫茶がDIYで ←これも重要 - 再現されて、だからこれらは彼の定点であるこの青森の地で開催されなければならなかったのだ、って。

あのロック喫茶でそのまま3時間くらいレコード聴きながらだらだらしたくなる展示だったが、バスで市場のほうに行って、穏やかでぜんぜんらしくない津軽海峡をながめて電車で弘前に向かって弘前れんが倉庫美術館の『松山智一展:雪月花のとき』も見て、晩の飛行機で戻る。

10月31日から11月3日までは京都に行って、そこを起点にすこしだけ大阪と奈良にも行った。
これまで桂離宮も法隆寺も行ったことがなかった、ので改めて基本を見ていこう/おこう、ってそれだけ。

寺社系だと「東寺のすべて」を見て、三十三間堂を見て、法隆寺を見て、永観堂を見て、建仁寺を見て、展覧会だと京セラ美術館で『竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー』、京都国立近代美術館で『京都画壇の青春―栖鳳、松園につづく新世代たち』と常設展を見て、大阪の中之島美術館で『生誕270年 長沢芦雪 - 奇想の旅、天才絵師の全貌』を見て、奈良国立博物館で『正倉院展』見て、建仁寺でやっていた『スミソニアン 国立アジア美術館の名宝』を見て、結構足と目がしんだ。

あと、桂離宮のあの茶室はやっぱすごい(日本とか和とか、じゃなくて考えた人が)。外側のどこからどう見て攻めていっても驚嘆すべき格子模様が出現して止まらない。

奈良の正倉院展は去年も行ったので今年はよいかとも思ったのだが、すっぽんの石とかおしどりの布とかを見たくてたまんなくなって。実際にたまんないやつだった。

耳系だと昨年Brian Enoのインスタレーションを見たところで:

Ambient Kyoto 2023

アンビエント、っていうと古い人なのでEnoの”Ambient 1: Music for Airports” (1978)がまずあって、かつては環境音楽とも言われていて、特定の「環境」の与件とかありようを侵さないことを基本とした音楽とか音像を探求していく(そういうなかでいかに音楽は可能となるのか、という)試み、と理解していたので、ここでBuffalo Daughterとか山本精一とかCorneliusがライティングやヴィジュアルやミストと共に鳴らしていた音って、ものすごくふつうの、スタティックというよりはダイナミックな音像たちで、ここから「アンビエント」を導きだすとしたら、音の塊りが環境そのものとして感覚まるごとを襲って覆う、そういう機能性をもった音楽、のように言えるのだろうか? と。すべての活動を追っているわけではないが、坂本龍一のまず「聴く」ことへの注力から環境そのものを考えていくようなアプローチもそこに含まれるのだろうか、とか。

こんなの考えなくてもよいことなのかもだけど、止まらなくなって、あんま考えずに楽しめた昨年のEnoのほうがまだよかったかも、とか。

この後に、これの関連イベントで、岡崎のほうのふつーの日本家屋でやっている「しばし」っていうのにも行った。予約制で、Garrardのターンテーブル、真空管アンプ、Lockwoodのお座敷スピーカーで、ちりちり系のレコードを鳴らすのを聴く(だけ)。涼しくなった(11月に入ったのになんでこんな暑いの?)夕暮れ時、床の間のある純和室に鳴るこんな音が悪いわけはないのだが、自分のとこでこんなの実現するのは無理よね、ってすべて崩れる。本とかレコードとか、どうするのか、っていつもの―。

これで日本のアート系は当分のあいだ見なくても...  となるかどうか。

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