10.18.2021

[film] The Story of Film: A New Generation (2021)

10月11日、月曜日の晩、London Film Festivalのストリーミングで見ました。

”The Storms of Jeremy Thomas”に続く、Mark Cousins監督による2本目(作られた順番はこちらの方が先らしい)。”Jeremy Thomas.. “がホーム・ムーヴィーのように撮ったお手軽感があるのに対して、こちらは監督がずっと追及している本来のテーマに沿ったもののようで、これも今年のカンヌに出品されている。

Mark Cousinsさんとの出会いは、2020年3月にBFIで行われたTilda Swinton特集で、彼女と一緒にクラシック(上映されたのは”Peter Ibbetson” (1935))を紹介する回に現れて、スコットランドのスカートをはいてTildaさんと”Tainted Love”を歌って踊ってくれて、スコットランドの高地で子供たちのための手作り映画祭りをやっていた話を聞いていいなー、って。 その後はロックダウン中に見ることになった全14時間のドキュメンタリー - “Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema” (2018)で、これはものすごく勉強になるやつだった。

この作品の前の方には“The Story of Film: An Odyssey” (2011)という各1時間のTVシリーズを纏めた全15時間のもある。映画史についての映画、と言ってしまえばそれまでだけど、単にテーマやジャンルに区切って並べていくのではなく、映画を見る、という経験が(そして映画を作る、という行為が)現代を生きる我々にとってどんな意味や意義を持ちうるのか、それ自体が歴史的な経験であり実践となるのだ、という前提とか仮説とかを確かめるように、いろんなショットを切って貼って振り返ってを繰り返しながら紹介していく。

この点でイメージの連なりとかありようとか、ショットや編集の的確さとか、テーマの歴史的文脈を掘り下げていく批評家のアプローチとはやや異なっていて、でっかいスクラップブックのページをめくって見ていく感覚 - 図書館に籠るというよりは旅に出ていく(ロード・ムーヴィーを見る)感覚がある。つまんない人には(そんなの知ってるよ、で)つまんないだろうが、興味ある人にはなんだかおもしろい。

冒頭、例えば、のような形でStanley Donen -  Jane Campion - 香川京子 – と繋いで映画史上の天才たちを紹介した後で、最近の映画に出てきた象徴的なふたつのキャラクター”Joker” (2019)のArthurと”Frozen” (2013)のElsaを並べて、この映画で描かれる、大人の男や女性のキャラクターの変容は何によってもたらされたものなのか? と問いて、更に例えば、とAgnes Varda - Charles Burnett - Ari Aster - Chantal Akerman – などを並べてみる。これらの「例えば」の置き方がなかなか絶妙で、人によっては「なるほど」かもだし、人によっては「それは違うんじゃ」なのかもしれないし、正解はなさそうだけど、考えるきっかけの何かとかその並びにある誰かに連なっていく止まらない楽しさがある。

こうして、Part 1では”Extending the language of Film”というタイトルで、今世紀くらいから出てきた新しい映画技術が映画(の言葉)をどんなふうに広げてきたのか、Part 2では“What have we been Digging for?”というタイトルで、それらはつまるところ何を掘り下げてきたのか、を問う。のだが、このふたつの問いの答えは厳密に分けることができるわけではないし、必ず過去の映画のどこかに参照項や共通項があったりするものなので、やや緩めに両方の問いを、過去の映画と現在の映画の間を行ったり来たりすることになる。

こうしてデジタルによる制作や編集、iPhoneによる撮影、音響や映像の加工や微調整、ミリ秒の制御やゲームの(コンテンツ)感覚、Google的なメガ可視化、NetflixやYouTubeのようなプラットフォーム(よる集客解析)、これらがアクション映画、コメディ、ホラー、人体造型(”Irishman”のデニーロ)、ドキュメンタリー(”The Act of Killing” (2012)とか)等のジャンルにどんな影響を与えているのか。ものすごい沢山のクリップが並んでいって、どれもあー、とか、うー、とかばっかりになる。 映画の見方が変わる、とまでは行かないけど、なんだろうこれ? って。

最後の方に、ひとつの傾向(という言い方はしていないが)として、現代の「自分たち」を描いた映画が並べられる。例えば – “Us” (2019), “Parasite” (2019), “Atlantics” (2019), “Song of the Sea” (2014), “Black Panther” (2018), “Border” (2018), “The Farewell” (2019), 『万引き家族』(2018), “Leave No Trace” (2018), “Happy as Lazzaro” (2018), “A Fantastic Woman” (2017) – などをざーっと流して、最後に” Spider-Man: Into the Spider-Verse” (2018)が.. (どれもなんだか絶妙に懐かしかったり)

新たな技術のありよう(投資のフロー)の向かった先が(例えば)これらのいろんな「自分たち」(の置かれたランドスケープのようなもの)を描いた映画たちだったのだとしたら、なんかおもしろいかも。あと、新たな技術もあれば廃れる技術もある – この映画のなかでは掘り下げられなかったけど、技術の陳腐化によって作られ難くなった領域とかもあるのだろうか?

で、最後にそれを見る我々はどこに行くのか、というと - NYのロウワーイーストの映画館- Metrographが映しだされたので少し泣きそうになった。ロックダウン、みんなそれぞれ苦しかったけど、やっぱり映画館に行きたいよね、って。そこに落っことすのかー、はあるけど、Metrograph、ほんとに戻りたいようって悶えているのでずるいや、って。

これを近年の邦画で誰かやってくれないだろうか。ゴミみたいのばっかしで難しいかもだけど、なんでゴミはゴミなのか、とかその腐臭の成分分析とか。


寒くなってきたのはよいことなのだが、足を少しだけ布団に入れただけで軽く3時間がどこかに飛んでしまったりするのは困る。

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