11.18.2020

[film] Les nuits de la pleine lune (1984)

7日、土曜日の晩、MUBIで見ました。英語題は“Full Moon in Paris”、邦題は『満月の夜』。

Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの4つめ。冒頭に出てくる箴言は - “He one who has two wives loses his soul, he who has two houses loses his mind” – これ、ル・カレの『パーフェクト・スパイ』にも同じようなの出てこなかったっけ?(←確認したいのだが、本が..)

パリの郊外のアパートに恋人のRémi (Tchéky Karyo)と暮らすLouise (Pascale Ogier)がいて、パリのデザイン事務所でインターンをしているLouiseはそこにもアパートを借りていて、そこを起点にパーティに出かけたり友達を呼んだりしている。Rémiは筋トレ野郎でテニスとかもやっているので彼女が朝帰りする頃には寝ているし、互いに干渉しなくていいでしょ、と。

そうやって夜遊びするLouiseに近づいているのが作家のOctave (Fabrice Luchini)で、妻子持ちでずっとべらべら喋っていて高慢ちきで見るからにやなやつなのだが、パーティで彼が傍にいてくれることとか、彼の助言や(時としてうざい)おせっかいは、パリに遊んで生きる彼女のなにかを満たしてくれているらしい。

でもそのうち、パリと郊外の家を行ったり来たりが続いてRémiからもOctaveからもあれこれ言われて互いにぎすぎすしたり疲弊したりが嫌になったLouiseは、その辺にいたバンドのサックス奏者Bastien (Christian Vadim)を引っかけて夜の街に..

Louiseはパリにいるといろんな人が声をかけてくる、と言い、他方でわたしにはひとりになれる場所が必要、とも言い、ふたつの部屋についてもどっちも必要だ、と言いつつ、どちらにも長く居られないので往復を繰り返す。そんな居場所を失った亡命者のようにパリに滞在して満月に向かって走っていくの。

これはいろんな点で喜劇と箴言の他の5作品とは異なっている気がしてー。

まず84年という時代とパリという地域の特性が前面に出ている、ということ。Louiseの住んでいるところはパリとの対照でなにもない荒地のように描かれて、駅に近いのだけがよいところ、とか言われる。『飛行士の妻』(1981)もパリだけど、あれはパリじゃなくても成立しそうなお話しで、『満月の夜』の主役はLouiseとパリの街で、あの当時のあのファッションとチープな音楽(担当のふたりはStinky Toysの人達だったのね)と田舎モノには逆立ちしても真似できないデコールや小物のセンスがある。

そしてもちろん、主演のPascale Ogierの突出っぷり。他の作品でも女優さんはみなすばらしくて、それぞれ周りの人達とのやりとりの中で押したり押されたり泣いて泣かされ突っ走ってをしていくのだが、ここでのOgierは自分の、世界の女王としてすべてを決めて闇も光も堂々とひっかぶる、その舞台の上にいる強さ。Production DesignもCostume Designも彼女で、Renato Bertaのソリッドなカメラが捉えたパリの夜も含めてこの映画の主なところを決めてしまっている。

こうしてフロントに出てきたPascale Ogierに対する反動というか痛めつけというのか、この作品は6作のなかでもっとも暴力(SM?)的な要素と予感に満ちていると思う。後半に向かうにつれて執拗になっていくOctaveの言い寄り(ほぼハラスメント)とかLouiseとわかりあうことができないよう、って突然自分をぶん殴ってしまうRémiとか。

この辺で、ホン・サンスのことも少し思った。中心にいるPascale Ogierがこの映画のリリース直後に夭折しなければ、ホン・サンス映画のMin-hee Kimのようなミューズになっただろうか?(いや、それはまずない)

喜劇も箴言も場所や時代を超えた普遍性をもって伝えられて広がってきたもので、今回追ってみた6作(『緑の光線』だけこれから)のちっとも古びていないかんじは見事としか言いようがないのだが、この作品だけは別の意味でクラシックになっていると思った。 公園とか海辺にはない、それって満月の力なのかもしれない。

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