11.19.2020

[film] Gunda (2020)

13日、金曜日の晩、DOC NYCフェスティバルで見ました。5回分の回数券を買って。

DOC NYCは2010年からNYのIFC Center(映画館)を中心に始まったドキュメンタリー映画のお祭りで、最初はNYの周辺を題材にした新旧のドキュメンタリーを集めて上映していて、2012年頃に現地で見ていたことがあってすごく面白かった。毎年案内だけは来るので見たいようーだったのが、今年はバーチャルでやってくれる。

いまのこのご時世、しょうもない陰謀論(陰謀じゃなくて陰謀論)ばっかりで、まとめサイトどころかメディアそのものも腐ってきていて、どうしてかというと誰もが手近のすぐに読めてわかりやすくて心地よい「現実」を求めているからだと思うのだが、そういうのの「理解」って人についても出来事についてもそれなりの時間をかけて向き合わないと無理なんだよ - ほら、ということを良質なドキュメンタリーは教えてくれる。最近自分がドキュメンタリーばかり見ているのはそういうことなのかも。

ノルウェー=アメリカ映画で、Joaquin Phoenixがエグゼクティブ・プロデューサーに入っていて、Paul Thomas Andersonが絶賛して、NYFFでも上映されていた。NYFFもバーチャルでやっていたのだが、VPNで繋ぎにいったら”Proxy経由はだめよ”って言われてしまったので諦めたの。

モノクロ(ややセピアがかっている?)の、でも解像度は高い映像で、小屋の入り口に頭だけ見せて転がっているでっかい豚さんがいる。しばらくするとその顔に被さるようにちっちゃい3匹の子豚がぴょこぴょこ現れて暴れだして、ブーフーウーかよ、とか思うのだが、この時点 - 開始約3分 - でやられる。

字幕もナレーションも音楽もなくて、彼らが”Babe” (1995) みたいに喋りだすこともなくて、小屋のなかにカメラとマイクを置いて映りこむもの聞こえてくる音を全開にして豚さんと同じように寝転がって、気分はほぼ豚か小屋に住む虫になるかんじ。寝転がっていた大豚は子豚たちのママで、暫くは授乳できーきーおしくらまんじゅうをする大小の肉の塊ばかりなのだが、いくらでも見ていられる。ママが子豚一匹を踏んづけて(早くどいてあげてよ)、その子豚は片脚を引き摺るようになるのだがそんな子豚の様子も追っていけるくらいの映像の近さと細かさ。

それから画面は木の繁みに捨てられた(?)籠から姿を現すニワトリたちの方に行って、うち一羽は片脚しかなくて、たぶんこの子たちは不要な奴として捨てられた鶏たちであることがわかるのだが、その一羽の表情とか動き – そのフィギュアの強さときたらすごい。絶対彼は自分がどういうことになっているかわかっていて、これからどうすべきかを考えて、次の一歩を(一本しかない脚で)踏みだそうとしている。まるで西部劇のオープニングみたいに。

続いては牛がいっぱいの牧場で、牛たちの顔や体にはハエがわんわんたかってすごいのだが、そのうち2頭が頭と尻尾を互い違いに縦に並んで、それぞれの尻尾でそれぞれの顔に寄ってくるハエを掃うようになって、それを他の牛たちも組をつくってなんとなく真似していくの。エコシステムの組成。 なんかすごい。

そこからまた元の豚親子に戻って、子豚たちは結構大きくなって母豚と外を歩き回るようになっているのだが、ある日車がやってきて..

すべて同じ牧場で撮られたものかと思ったら、ロケーションはノルウェー、スペイン、UKとぜんぶ分かれているのだった。 人間の姿は影もなく、声も言葉も一切聞こえてこない、字幕はエンドタイトルのみ、それでもドキュメンタリーと呼べるのか、監視カメラの映像と同じようなものではないか、と言うかもしれない。けど彼らのキュートさに粉々にされながら見ていると、「家畜」という人が作りだした「種」とは異なる生命のありようについて、食肉という古来から続いている食のありようについて、気がつけば振り返っていたりする。Joaquin Phoenixの狙いもその辺にあったのではないか。

我々はなにをやってきたのか、なんということをしてきたのだろうか、と。このシステムを変えようとかそういう話ではないし、簡単に変えられるとも思えないし、自分がヴィーガンになるとも思えないのだが、この後に彼らに起こるであろうこと(についてのドキュメンタリーは結構見ている)を想像したり、反省したり感謝することくらいはいくらでもしてよいはず。

あと、おいしい食事は本当に人を幸せにしてくれる、その横にここの豚さんたちの映像を重ねてみること、かな。

とにかく、豚マニア、鶏マニア、牛マニアの人、動物映画好きの人もそれぞれ必見。


UKやヨーロッパ諸国がこのタイミングでロックダウンに入っているのはこのクリスマスをみんなで迎えられるように/迎えたい – なんとしても。という思惑があるわけだが、仮にフルとは言わないまでもそこそこ楽しむことができるかも、となった時、食べ物をどこからどうするか、をそろそろみんな考え始めている。これまでパリに日帰りで買い出しに行っていたのだが、今年は無理そうだし(まだ希望は捨てていない)、そうなると春から夏にかけて発見した近所の八百屋や肉屋で賄うしかない。これらのお店の実力はまったく申し分ないのだが、来月のあの頃にどんなものが入ってきているか予測がつかない(基本旬のものしか置いていないから)..  

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