9.21.2020

[film] Les enfants d'Isadora (2019)

少し前、3日の木曜日の晩、MUBIで見ました。英語題は”Isadora's Children”、邦題は『イサドラの子どもたち』で、日本でも間もなく公開される、よね。

関連しているのかしていないのかよくわからない3つのエピソード、4人の人物が出てきて、アメリカ人ダンサー - Isadora Duncan (1877-1927)の創作したピース “Mother”(1921 - 初演1923)を踊ったり見たりする。 Isadoraは1913年にセーヌ川で2人の子供を事故で失って、それからしばらくダンスも創作もできなくなり、この”Mother”で再びダンスをはじめることができた、と最初のエピソードの登場人物であるフランス人ダンサー(Agathe Bonitzer)がIsadoraの自伝を読んで知る。

振り付けをしているらしい彼女はひとりでスタジオに来て、Isadoraの本を読み、彼女の遺した舞踊譜を追って、それがどのような動きを要求するものなのか、自分で身体を動かしつつ確かめていく。(おそらく)まだ若い彼女は、Isadoraが彼女の歳で二人の子供を失うことがどういうことなのか、どうして彼女は踊ることができなくなってしまったのか、なぜそこから再開することができたのか、さらになぜIsadoraが音楽にスクリャービンを選び、そこにどんな振り付けをする必要があったのかを想像したり考えたり - あるいはダンスの動きのなかにその解のようなものは見つかるのかを捕まえようとしているかのよう。

次のエピソードでは、ダンスの発表を控えて練習していくふたりの女性 - 少し年上で舞台監督らしい女性(Marika Rizzi)と少し若くて障害を抱えている女性(Manon Carpentier)が出てきて、発表に向けての思いとか懸念とかを対話して明らかにしていく。 とくに若い女性の方は自分が踊ることでそれが観客にどう受け取られるかどうかを気にしている。

最後のエピソードは、前のエピソードで実現された舞台なのかどうか、客席でダンスの公演をみた高齢の黒人女性(Elsa Wolliaston)が重そうな身体を動かし、食堂で食事をとったりしてゆっくりと帰宅し、静かに物思いに耽る様を描く。最後までほぼ無言なので彼女が何を思ったのか、明確にはされないものの、なにかを受け取ったことは確かのような。(その佇まいは”Vitalina Varela”を - 死者を思う生き残った者の強さ - を思い起こさせる)

エピソードの流れはダンスを作る(再構築する)こと 〜 それを発表すること 〜 それを見ること、から成り立っているのだが、それらを通してIsadoraがこの”Mother”に込めたなにかが明らかになるわけでも、それを掘りおこしてリレーしていく(ように見える)演者や観客がその表象をどう解釈して受けとめたかが明らかになるわけでもない。 Isadora自身の“I didn’t invent my dance; it existed long before me.”という言葉の紹介があり、それを時間や世代を超えて繋ごうとしている人々がいる、そのそれぞれの動きを繊細に掬いあげようとしていて、その演目は”Mother”というタイトルなのだ、と。 誰かには必ず誰かの母がいる。

なぜ人はダンスを舞うのか、それを見ることに美や快楽を感じてしまったりするのか、「普遍性」とか「美」とか「母なるなんとか」のような曖昧なところに着地しようとせず、そういったことを考える筋道とか作法のようなものを示してくれる。 こういうのもダンスを見る楽しみのひとつで、その裾野は広いの。

Vanessa RedgraveがIsadora Duncanを演じた”Isadora” (1968)を見てみたい。


まだ夏休みと呼ぶことが許されるなら、と2泊だけヴェネツィアに行ってきた。 大丈夫だったのか? - はい、映画祭だってやっていたんだからたぶん。(まだわかんないけど)。 お天気もよくて湿気もそんなになくて、映画は見なかったけど絵とか宮殿とか教会とかいっぱい見れたのでよかった。 そのうちなんか書くかも。
唯一がっくりきたのは3日目の朝、起きたらRBGの訃報が来ていたことだけだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。