8.29.2017

[film] War for the Planet of the Apes (2017)

19日、土曜日のごご、Piccadillyのシネコンの小さいとこでみました。

"Rise of" (2011) - "Dawn of" (2014)に続く3つめの猿のお話しなのだが、もはや生物学的な変異を遂げた猿と人間の優劣とかその尺度や是非を問うようなお話ではなくなって、人間と対等な動物の生存競争 → 後戻りのきかない泥沼の戦争のドラマになっていて、つまり、それぞれはどんなふうに戦うのか、とか、なんで戦うのか、とか、戦うことの意味とか、そういう方にテーマがシフトしてきていて、つまりこれは、これまで散々映画とか文学で描かれてきた人間同士の戦争ドラマと変わらなくて、つまり米国大陸の猿の話しじゃん、のような他人事ではなくなっている。 長くて重いけど、見応えはあるよ。

前作の終わりから米軍との戦争が始まってしまい、シーザーをリーダーとする猿軍は山奥に籠ってゲリラ戦を続けているのだが、突然現れたColonel (Woody Harrelson) にシーザーは妻と息子を殺されて復讐の鬼となり、群れを離れて小隊を組んでColonelを追う旅に入る。
その過程で拾った唖の人の娘 - Nova - とか、シーザー達とは別の変異をしているらしい"Bad Ape"とか、更に人間同士でもよくわからない殺し合いをしているらしいとか、最終的にたどり着いた収容所と、そこにいたColonelの目的とは、などなど。

何が出てくるか判らず予測不能であること、それゆえに本来の意図を離れたただの殺し合いに転がっていくこと、それゆえに「原理」への回帰が求められ、それが新たな大量殺戮を招くこと、それが更なる憎悪の連鎖を生んで収拾がつかなくなっていくこと、ごく最近の、身近な戦争やテロで描かれる「構図」がここには殆どある。 この映画が過去〜現代をなぞっているのか、あるいは、という問いにあまり意味はなくて、それは未だに続く地続きのなにかなのだということ。 いまの我々は、いつ自由の女神像が崩れ落ちても不思議ではない時間のなかにいる、よね?

猿の生化学実験から収容所へ、という流れは明らかにナチスのそれだし、つるっぱげのColonel は誰がみたって「地獄の黙示録」のカーツ - 注射をした子供たち全員の腕を切り落とした、と語ったエピソードとか"Ape-calypse Now"の落書きとか - の転生としか思えないし、つまりは第二次大戦 〜 ベトナム戦争での悪夢が反復される時間のなか、猿たちは戦って、しかしその戦いも、シーザーの煮えたぎる怒りや私怨 - 前作で憎悪の塊となってダークサイドに堕ちたKobaのように - がドライブしているのではないか、という歴史と個人の絶え間ない問い - 問い直しのなかで揺れている。 でもそれは「聖戦」なんかではありえなくて、結局はただの殺し合いでしかないの。 (邦題はやはり間違っていて、だってこれを「聖戦」にしたがっているのは愚かな人間たちのほうなのだから)

おもしろいのは(おもしろがっちゃいけないんだけど)、オリジナルの「猿の惑星」との物語的な整合なぞを取ろうとしていじくりまわした結果、過去の戦争映画(群)のコラージュみたいになっちゃった、ていうのはいろいろ考えさせられるかも。 でもこれはSF(映画)で、SFってそもそもこんなふうに歴史を再構築してよいもの(フィクション)なのよね。

このシリーズはまだ続いていくらしいが、そろそろX-Menのテーマに繋がっていってもおかしくないかんじになっている。
そっちのほうに行く、ていうのもありかも。

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