9.20.2016

[film] Slacker (1991)

17日の土曜日の晩、青春映画学園祭ていうのの前夜祭で、渋谷(渋谷TOEIなんて初めていった)、で見ました。

この日の昼間は『チリの闘い』を見て、あんなとてつもないものを見てしまったのでくたくたで、こんなへなちょこ映画つきあってられるかー、と脳は叫んだりしていたのだが、とにかく見るのだ、と。

Richard Linklater初期の91年作品。 上映されたのとおなじ素材 - CriterionのDVD - は持っているのだが、ちゃんと見た記憶がない。

怪しげな男(出てくるやつみんな怪しげ)が(たぶん)長距離バスから降りたってタクシーを拾い、自分を運ぶタクシーの運転手相手に車中で見た変な夢の話をして、そのタクシーを降りると車に轢かれた女性が倒れていて、そこを経由して女性を轢いた男にカメラは移って、こんなふうにカメラは交錯する人々の間を転々と渡っていく。 人々はそれぞれに勝手に動きながら適当なことくだんないことべらぼうなことをべらべら喋って、ひとしきり喋るとバトンを渡すかのように次のひとに替わる。これが朝から次の朝まで一日分。
"Before ..."シリーズはこれをふたり/数時間の枠でやった。 "Boyhood”はこれをひとり/16年でやった。

おなじ世界に生きる/その時間を描く、というのは例えばどういうことなのか、ということを追い続ける - Linklaterの最初の突端の。

ひとりひとりの会話の中身や断片をつないでいくと大きなストーリーや世界観や陰謀が浮かびあがる、というわけでもなさそう - わかんないけどね - だし、ひとりひとりが実は巨大な組織や会議の構成員だった、というわけでもなさそうで、でもかといって、まったく意味連環のない無駄話、法螺話をするばかり、でもない、気がする - わかんないけどね。

意味的な連なりや組織集団ぽい挙動を周到に避けるかのように、全員がロンドを舞う、バッタのように散りながら移動をしている、ように見えなくもない。そうでなけりゃこのばらけ具合は、ぼんくら濃度はなんか異常だし、全員酔っぱらっているようで半分くらいはとっても正気だし、でもありえない気もするし。
もちろんそんなの、誰にもわかるわけがない。 それをわかりやすく意味づけしたり組織化したり(して統治)するのが例えば政治家の仕事で、この映画はそこを迂回して迂回してすれ違いとはぐらかしを繰り返す - ていう(これもまた)政治的な身振りで。

というようなことを考え始めた時点でLinklaterの術中に、Conspiracy A-Go-Go に堕ちてしまったのかもしれない。
だって余りにもおもしろすぎるし。少し恐ろしくなったのはこれが4時間くらい続いたらどうしよう、てことくらい。

『チリとの闘い』との関連でいうと、ここに並べられたSlackerどもは果たして「武器なき民衆」として組織化しうる - あの映画の連絡会議みたいに - のか、とかそんなことを考えていたの。 連中は生活にはあんま困っていないようだから、まずは闘いたくねえというだろうし、「同士」なんて呼ばれることを断固拒否するにちがいない、他方であらゆる陰謀を研究しまくっているようなので、懐柔されたり巻きとられたり、も絶対なさそうかも、とか。 わかんないけどね、アジェンデ政権を潰した国の連中だから。

でも、これが"1991 - The Year Punk Broke"に、クリントン政権誕生の前年にリリースされた意義って、決して小さくはなかったのかも、とも思った。 全ては - どんな戯言であっても政治的ななにかであることを、映画はそれらを組織化する強力ななにかになりうることを、そのやり口みたいなのを、このインディペンデント作品は示したのではなかったか。
(SNSがまだなかった時代に ... なんていうのは野暮なだけ)

Poi Dog Ponderingの人が出ていたり、ジャケットの女の人はButthole Surfers のドラムスだった人だし。 当時のオースティンの音楽シーンもなんとなくうかがえる。


ぜんぜん関係ないけど、昨年ダラスに行って車(Uber)に乗ったとき、運転手のおじさんが策謀陰謀大好き系のひとで、ケネディ暗殺の謎をえんえん語ったあとで、あるサイトのURLとパスコードを教えてくれて、ここを読めばケネディの件から911まですべての謎が繋がっていることがわかるのじゃ、見てみるがよい、と言われたのを思いだした。 あの紙、どこにいったかしら。

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