9.29.2016

[film] Everybody Street (2013)

23日金曜日の晩、渋谷で見ました。NYの映画なら、見るの。
『フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク』。

今も現役で活躍するNYの路上フォトグラファー - Boogie, Martha Cooper, Bruce Davidson, Mary Ellen Mark, Elliott Erwitt, Ricky Powell -  などなどのインタビュー映像をランダムに散らして、そこに美術史家による解説と、Henri Cartier-Bresson, Robert Frank, William Klein, Diane Arbus, Garry Winogrand, Saul Leiter, Sylvia Plachyといった巨匠たちがとらえたクラシックかつブリリアントなNYの写真たちも加えて。

Bill CunninghamとかSaul Leiterとか単独でドキュメンタリー映画がある人たちは殆ど出てこない。

これらを通して浮かびあがってくるのは被写体としてのNYの過去から今までを通してずっとある魅力で、場所が先か人が先か、みたいな話はあるものの、やばくて変な人がいっぱいいるから、とかそういう連中が野や通りに放たれて満ちているから、とか理由はそれぞれ、写真はその時間のその
場所を記録するものというより、流れていく時間を、動いている人を止める装置なのだ、みたいな発言もでてくる。

被写体として語られる場所は、例えばBrooklynだったり昔のLower Eastだったり70年代の地下鉄だったり、危険なので立ち入ってはいけません、と昔だったら言われていたような場所 - 90年代初めの頃は、Alphabet Streetはまだまだ危険だった - で、ではなぜそういう場所が写真家には好まれるのか、それらを撮った写真は魅力的に映るのだろうか。

危険で人がいない or 人がいなくて危険な場所はただの廃墟で(そういうのを好んで撮るひとがいるのはわかるが)、でもこの映画に出てくる写真家たちが撮っているのはそういうのではなくて、危険な場所、とか言いながらも子供たちが道路で遊んでいたりするし、ふつうに人が生活しているし地下鉄は使われているし、要するに"Everybody Steet"である、と。 編み目の通りが枝葉になって成り立つマンハッタン、通りの際に建つ建物の壁のすぐ裏側では沢山の人が暮らしている、という集積度とか密集度 → 長屋のおもしろさ、ていうのはあるかも。 あと、イタリアンもいればアイリッシュもいればプエルトリカンもいれば、ていう多様性はあたりまえの話としてあって、それを危険、て言うのもねえ。 (この映画に出てくる写真家たちの容貌の傾向は、少し気になったかも。ほんの少しだけ)

子供たちが笑って遊んでいる場所とか路地があるのであれば、それはとてもよい土地なんだよね、っておもう。 写真家は別にいなくたっていいの。
そして、今の東京には自撮りで笑う子供たちしかいない。

パリでやってるこの展示、みたいなー。
http://www.henricartierbresson.org/en/expositions/louis-faurer/

ああ、Hobokenの駅がたいへんなことにー。

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