12.15.2012

[film] To vlemma tou Odyssea (1995)

2日の日曜日の昼間、渋谷で見ました。『ユリシーズの瞳』。 
まだ見たことなかったし。アンゲロプロスさんをちゃんと追悼していなかったし。

オデュッセウスの凱旋よろしく、米国の不健全な映画監督として母国ギリシャに帰還したA(Harvey Keitel)が、マナキス兄弟の失われた最初のフィルム、ギリシャの最初のフィルムを探してバルカン半島を渡ってサラエボに向かう、という話。

前の日に見たホン・サンスに続いての映画監督モノ(映画監督自身と思われる映画監督が主人公)繋がり、となるが、両者はあたりまえのように、ぜんぜん、ものすごくちがう。 この違いを考えてみる意味はどっかにあるのかないのか。 (行く先々できれいな女性が現れるけど…)

英語題は、"Ulysses' Gaze"であって、邦題の「瞳」よりはダイナミックに見る、凝視する、という動きのイメージが出てくる。

タクシー、列車、船を乗り継ぎ、「国」を渡る旅を通して、目を疑うようなヨーロッパ、バルカンの現状、壊れていく「歴史」に震えてあきれて疲労困憊し、自身を喪失し、それでもそれらをじっと見つめ、フィルムが見つかる確証があるとは思えないのに旅に、移動に没入して誰かが勝手に敷いた国境という線を超えていく。 フィルムを探す旅は自分を探す旅なんかではありえなくて、寧ろフィルムに近づくにつれ、彼は自分を、国を見失っていく。

なんでそこまでしてギリシャ最初の未現像フィルムを探し求めのるかというと、最初に映画を撮った兄弟の世界に対する最初の眼差しが、そこに込められた最初の思いが、その思いを受けてフィルムめがけて突き刺さってきた世界の最初の光が、そこにあるから。 そこにある、と彼A - アンゲロプロスが信じるから。

荒地と化してしまったヨーロッパに、今必要なのは、その最初の光であり、最初のイメージなのであり、冒頭に映し出されたフィルムにあった糸を紡ぐ女性のように、映画監督である自分はフィルムという糸を紡いて、みんなに見せるのだと。
フィルムは世界にとって何でありうるのか。フィルムの行き着く先はデジタルアーカイブやデータベースにあるのではなく、世界の糸を紡ぐことであり光を注ぐことなのだ、と。

フィルムの現像まであと一歩のところまできたサラエボで最後の悲劇が襲う。
なにも見えない白い霧 - 光はあるのに見ることを阻む雲の向こうで行われる殺戮。
それでも、彼は霧の向こう側を見つめ(こちらには音のみ)、声も涙も涸れて空っぽになって、そのぼろぼろの穴に最初のフィルムの白い光が注ぎこまれる(こちらにはフィルムの回る音のみ)。 そして、今度戻るときは、他人の服を着て、他人の名を名乗り… ていうの。

Harvey Keitelの肉体がすばらしい。ギリシャ彫刻としか言いようがなくて、でも彼ももう73なのね…

で、こういうのを見たあとで、西欧文明の腐れなれの果ての典型のようなフィルム "Skyfall"なんかを見に行ったのだった。


ぜんぜん関係ないけど、明日の選挙は断固極左でいくから。

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