8.27.2012

[film] Ludwig- Requiem für einen jungfräulichen König (1972)

18日の土曜日に見ました。 
アテネの『ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク ドイツ三部作』、ぜんぶ見たかったのだが、結局行けたのはこれだけ。
土日は限られてるし、平日17:00開始なんてぜんぜん無理だし。 もう一回どこかで-(祈)。

英語題は、"Ludwig - Requiem for a Virgin King"。

これらドイツ3部作をドイツ近代史のどこかにマップするなんておそれおおいことはもちろんできないし、映画いっぽんだけの感想にしかならないのですが。

これは王様のお話しで、王家というのは必ず没落する、他方で世の中はそれとは関係なく続いていくもので、要は主権者たる王がいなくなる・潰される、その出来事が民やお付きたちも含めてどういうかたちで転がっていったのかを明らかにすることで、そこにドイツ的ななんかが滲み出てくる(はず)、とか、そんな程度で。

荘厳なセットの光と闇のなかで、迫真の王朝ドラマが繰り広げられる、とかそういうもんではなくて、セットはぺらっとした書き割りで、でもそれなりにゴスでかっこよくて、そいつをバックに、ルードヴィヒがパトロンだったワーグナーのがんがん流れるなか、ころころ運命にもてあそばれていった王子の境遇が語られていく。 

ルードヴィヒは書き割りから浮きあがった存在感をもってそこにいるわけではなく、その端正な顔だちは完全に書き割りの、アートの一部として機能していて、つまりはでっかい紙芝居のように物語が進行していく。 浪曲のべべんべん、がワーグナーになって、ああかわいそうな王子の行く末やいかに~♪、べべん(ちょん)、とかが映画のスクリーン上で展開される。 
そうそう、浪曲ではなくてレクイエム、なのだし。 でも感情移入とか、そういうのができる余地は全くない。

紙芝居の語り手、書き割りひとつひとつのあいだの隙間(そこで省略されたもの、誇張されたもの)、といった要素はあるものの、多用されるクローズアップとか、登場人物の顔の造形や色味とかと共に、堂々とふてぶてしく、型破りな映画の貌をあらわしていて、つまり、紙芝居というよりは、やっぱり映画、それも音楽ががんがん鳴り続ける映画としてすんごくおもしろいとおもった。 
実験映画、のように見て見れないことはないけど、そんなことしなくたって。

(たぶん、なんとなく)ナードで変態でしょうもなかったルードヴィヒの生涯を、例えばアメリカ人のSofia CoppolaがMarie Antoinetteを思い入れたっぷりに描いたのとは全然ちがう形で、70年代のドイツ人が自分ちの墓を暴くかのような大仰な身振り、大真面目さでもって描く、その揺るぎなさ、そこにドイツ人の歴史(的なもの)、過去に対する目線をじっとりと感じることができる。
このじっとり、ねっとりとした目線は、ファスビンダーあたりにもあるような気がするのだが、ファスビンダーは「ドイツ三部作」のような大風呂敷には向かわなかったような。 
でも、どっちも見れば見るほどおもしろいんだよね。

Ingrid Cavenが出てて、あとはエンドクレジットで気がついたのだがDaniel Schmidが出ている。
Daniel Schmidへの影響はあったのだろうなー。

あと、Derek Jarmanへの線、というのはあったのかしら?
(Daniel SchmidとDerek Jarmanはひとつ違いなのね)

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