3.31.2012

[film] The Turin Horse (2011)

『戦火の馬』が朝9:50の回、『ニーチェの馬』が13:50の回。 ぜんぜん会社休んだ気がしない。

馬の映画ではなく、ニーチェの映画でもなくて、そういうのは頭に入れずに見たほうがいい。
父と娘と馬の、世界が終るまでの6日間。 世界はこうして終っていく、ということをシンプルに、同時にとてつもなく饒舌に描く。

ぼうぼうに吹き続ける嵐の音、不機嫌なおならのように鳴り続けるオルガンの音、モノクロで、画面全体に虫のように集って舞い続ける白と黒の粒粒。 目と耳に襲いかかるノイズにわんわん曝され続ける154分。
あんまりにもやかましいので画面に向かうことしかできない。
彼らが向き合う窓はそのまま映画のフレームで、呪われた嵐が我々をも椅子に縛りつけてしまう。

町から焼酎を貰いに来た男は世界と神の堕落、その終わりを説き、馬車できた男女のグループはアメリカに行けばなんとか、と言い、そいつらに「失せろ」と言った後、井戸の水が涸れ、馬がなにも食べなくなり、ランプが点かなくなり、ひともやがて食べなくなって闇が。

思索的な寓話、みたいな読み方もできなくはないのだろうが、そんなことしなくても、難しいところはなにもない。 彼らは殆どしゃべらないし、彼らの動きに不鮮明なところはなにもない。
力強い父親の顔、娘の顔、彼らが扉のむこうに出ていくショット。じっと見るだけ。
服を着せる、井戸水を運ぶ、洗濯物を干す、竃に薪をくべる、じゃがいもを食べる、皿を片付ける、その反復。  じっと見るの。

世界がこんなふうに終わり、光がこんなふうになくなるのであれば、映画もそういうふうに終るのだろう。だから映画はもう撮らない、という見方をするのはあまりにわかりやすくて短絡だし、あれこれ言うべきではない。
むしろこれまで、映画のなかで、世界は何万回でも終ることができるし、終ってきたのだ、ということに思いを馳せるべきなのだろう。 それがなんになるのか、をへらへらと躱しつつ転がしつつ。

いまの邦画だと「いや、それでもおれは生きる!(ぎんぎん)」とか、「そばにいてほしいの(べたべた)」とか、幸福だの奇跡だの、そんなのばっかりで、そういう症例(だよね)として示されるげろげろに気色悪い「終わり」と比べたら、こっちのがだんぜん潔くてかっこいいと思いましたわ。

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