3.28.2012

[film] The Girl with the Dragon Tattoo (2011)

土曜日、サイレントの後で、やっかましいのをもう一回みました。

R18+バージョンってなんじゃろ、と思ったのだが、よくわかんなかった。
一番期待したのはケツの穴だったのだが、見してくれなくて、Londonで見たのと同じバージョンだったような。(ひょっとしたらR18- バージョンのほうに穴は ...)

やっぱし犯人が誰、というのは割とどうでもよくて、あの一族の物語、というのもどうでもよくて、結局のところ、傷を負ったもの、傷を曝すものが、なにか - 同様に傷を負っているなにか - を追っかけて暴こうとする、その過程がまんなかにある物語なのだとおもった。

"The Social Network"も、そんなようなお話だった。 この話の核は、Facebookがどういうふうにでっかくなっていったか、にあるのではなく、あの審問の過程で明らかになる、裏側で蠢いていたなにか、否応なしに引き起こされて波風をたてたなにか、だった。
そこにはっきりとした外傷はない、けれどもなにかによって傷ついた誰かが引き起こした一連のイベント、その痕跡のようなものがあの映画のベーストラックにはなかったろうか。 
かたちを持たない、なんかぐにゃぐにゃした健常ではないなにか(Fragile, Nerd... と言ってよいのかどうか)があの起業~大成功の裏にはあった、と。

"… Dragon Tattoo"は、傷への執着がより顕著にでている。
彼女の刺青って肌の表面に傷をつけて、それを曝すことだし、あのブタ野郎に受けた傷は別の傷でもってはっきりと返すし、LisbethがMikaelと親密になるのは彼の額の傷を縫ってあげたあとだし、彼女の瞳が憎悪に燃えあがるのは、ひとつの失踪事件が複数の死傷の軌跡として地図上の獣道にマップされたその瞬間、ではなかったか。

他から理不尽に受ける傷への尋常でない嫌悪と執着、自身は傷と共に、傷を負った状態で生きるという強固な意志、一つの人格のなかで、このふたつは分裂も矛盾もしない。 そして同時に奇妙な連帯 - 連帯への意志を生んでいく。  "The Social Network"のラストはEricaへの友達になってという呼びかけで終わるし、これはLisbethはMikaelのことを「友達」、と呼ぶ。 そしてどちらも結末は苦い。

この要素が原作に本来あったものなのか、David Fincherのものなのかはわからないが、傷や痛みをかつて"My Sweetest Friend"と呼んだTrent Reznorの音がここにみごとにはまるのは当然のことなの。 ラストには"Hurt"が鳴ってもおかしくなかったのにな。

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