1.11.2024

[art] Impressionists on Paper : Degas to Toulouse-Lautrec

1月6日、土曜日の昼にRoyal Academy of Artsで見ました。まずはとにかくメンバーになっておく。
こっちに来て最初の、今年に入っても最初の美術館になるので一番見たい、好きなのを見ようか、と。

印象派の画家がカンバスではなく紙の上に描いた作品を集めたもの。ドガやロートレックやルドン、モネもセザンヌもゴッホもピサロもモリゾも、はたして印象派に区分けしちゃってよいの? みたいのもあるけど。

ヌーベルヴァーグの作家たちがカメラを街中に持ちだして映像の革命を起こしたように、印象派の画家にとっては紙がそれにあたる、のかしら? 紙と鉛筆、チョークにパステルを外に持ちだしてそこに漂うなにかを描いてみれば、とりあえずその場その時の光や色や風を速攻で捕まえて絵にすることができる – できるのか? - やってみよう - いう問いや試みがあり、そしてそれはカンバスに描かれる絵画とどこがどう違うというのか、と。

それは勿論違っていて、紙の上というのは色彩や陰影、タッチの強弱など、いろんな実験をする格好の場であり砂場の砂であり、デモの映像やマテリアルを作っては表に出すメディアでもあった。ドガのけばけばしい緑色とか、塗り潰されたスーラの黒とか、殴り描きのようなのもあれば、作りこみすぎてわけわかんなくなっているのもある。へーこのひとこんなことをー、の意外性がいっぱいあって飽きない。

いちばん興味深いのはパステルの発色のすごさ、そのビロードの滑らかな、粒だつ輝きだろうか。その効果を十分にわかっていたルドンのは狙ったようにすごいのだが、ドガもゴッホも、彼らの有名な油彩作品よりよほどおもしろい表面を広げて見せてくれるし、セザンヌの水彩の針のような刃物のような鋭さはなんなのか、って。

これらの絵はこれまで規模の大きなレトロスペクティブでもない限り、ふつうの展覧会ではあまり見ることができないものだった。ほとんどの成分が紙と粉なので弱くて劣化しやすいのと、個人蔵でささやかに所蔵されていたものが多かったからだ、って。もう一回見たいかも。


David Hockney: Drawing from Life

上のに続けて、National Portrait Galleryで見ました。

Hockneyの絵画の一番おもしろかった頃って、ドローイングで、ポートレートで、60-70年代だと思っているので、一番かゆくてむずむずするとこが凝縮されたようなやつだった。コロナのロックダウンの時にセレブたちをいっぱい描いた肖像画、やはりあんまおもしろくないのはなんでだろうか。

70年代の、具象にいくのか抽象にいくのか - それらはなにをもってそう呼ばれるのかうーむ、みたいに悩みながら線を引いて面を切っているような、それをクレアやグレゴリーらと対話していくかのように重ねられていく絵たちがすばらしい。そのプロセスと時間も含めて絵としか呼びようのないなにかが滲んでいるようにある、と思った。最近のは描く歓び - グラフィックス! みたいのに溢れているのだが、おじいちゃんよかったねえ、しか浮かんでこないの。


Hiroshi Sugimoto: Time Machine


1月7日、日曜日の午前、Hayward Galleryで見ました。最終日だった。写真家としての活動に絞った展示。

この写真家 - おじいさんは、自分のなかでは割と微妙なところにいるひとで、シリーズの好き嫌いもあって、水平線のと劇場とぼけぼけの建物のは好きだけど、ジオラマとか蝋人形はあんま好きじゃなくて、でも言っていることはなんとなくわかって、Time Machineとしての写真とか、表象の裏側に積まれた時間とか重ねられたロジックとか、ほんとどうでもよいことを嬉々として語るおじいさん、のおもしろさ、それだけでよいのかも。なんだかんだ頑固に一貫していることは確かだしー。


もうこっちに来て一週間経ってしまったわ。この調子で一ヶ月も、一年もすぐに過ぎちゃうんだから、知らんぞ。

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