10.21.2022

[film] Spencer (2021)

10月14日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
邦題は『スペンサー ダイアナの決意』 - 「決意」はあったのかなかったのか。

監督は“Jackie” (2016)をつくったチリのPablo Larraín、撮影はCéline Sciammaの最近の数作を撮っているフランスのClaire Mathon、音楽はJonny Greenwood。

1991年の冬、ノーフォークのサンドリンガム・ハウスの厨房に紋章入り軍用のケースに厳重に収められた食材(この時期のカニ!)が運びこまれて、クリスマス・イブからBoxing Dayまでの3日間、王室の面々がそこで過ごすための準備が始まって、王室メンバーが個別にやってきて、入り口では尊大なAlistair Gregory (Timothy Spall)による体重測定 - 分銅式の古い秤で - が行われたりしている。(慣わしらしい)。

でもDiana (Kristen Stewart) - タイトルが名字の”Spencer”であるのはとても象徴的 – はひとり車を運転して道に迷って苛立ったりしていて、目的地に辿り着く意欲があるとは思えない – 挙動だけを見ればちょっと病んでいるように見えないこともなくて、丘の上に立つ案山子にかけられたジャケット - 彼女の父Spencer伯爵のだという - を拾ってから厨房のシェフDarren (Sean Harris)に発見され、体重を測られて中に入れられる。招きいれられるというより、どう見ても収監される、というかんじに近い。

この3日間、ほんとうに実際に、この屋敷の中でどんなことが起こったのか、知る由もないわけだが、いくらでも想像することはできる。女王は毎年ここから恒例の王室のクリスマスメッセージを発信するし、それ用の写真も撮られるし、でも公式のそれらとは別にDianaはどうだったのだろう? 楽しんでいたか悲しんでいたか – たぶん、いやぜったいに悲しんでいた – どれくらい? どんなふうに? という問いに対する例えば、がこの映画で、傍にいて話を聞いてくれるのは子供たち - WilliamとHenryと、シェフのDarrenと衣装係のMaggie (Sally Hawkins)と、それくらい、あとは全員彼女を監視して苦々しく思っていてどう扱ったらよいものかと持て余している。彼女ははっきりとそれを感じて、それが自傷や過食を加速させる – のかもしれない。ものすごくおいしそうな料理がいくら運ばれてきても、本棚に読めそうな本がいっぱい詰まっていても、きれいなドレスがいっぱい掛かっていても、悲しいものは悲しくてやりきれない、ここは牢獄であとは断頭台に送られるのを待つばかり、とAnne Boleynの本を読んで(Camilla Parker BowlesはJane Seymourか)、でもやっぱりどうにもならないの。

誰もが羨む王家に嫁いで祝福されて、よいこの子供たちにも恵まれて、朗らかに過ごしてよいはずの年の瀬の3日間は、こんなにも腐った地獄の底で、それは配偶者の実家に送られて家父長のためにおせちを作らされたりクソくだんないTVを見せられてよく知らない親戚の相手をさせられたりする地獄と同じなのか違うのか。同じでよいのかも。自分は生きていない、監視され値踏みされている、尊厳も未来もない、とにかくつまんなくて悲しい。なんでこんななのか? いつまで続くのか? などを延々並べていく。並べちゃえ。

なかでもCharles (Jack Farthing)は子供たちをやめてほしいキジ撃ちに連れだし、Maggieを送り返し、自分と同じ真珠のネックレスをCamillaに与え、とにかくひどいことばかりする - ありえない – そういう出口なしの状態が延々と続いていって、そんなの見ていてなにが楽しいのか? というとべつに楽しくはないけど、Kristen Stewartがものすごいから見た方がいい、ってそこだけはたしか。

監督がKristen Stewartに演技の参考として見るように、といったのがCassavetesの”A Woman Under the Influence” (1974) - 『こわれゆく女』のGena Rowlandsだったって。なるほど。

Dianaのことをよく知らなくても、ひとは悲しいと、愛や家を失うと、こんなふうになってしまうものだ、というのがお屋敷のなかで、ホラーとは異なるスタイルで描かれていてなんかよくて、そこから解放された彼女は“All I need is a Miracle”を車で流して思いっきり歌い、子供たちとKFCを食べてすっきりするの。

“Jackie”ではMica Leviだったが、今作のJonny Greenwoodの音楽は弦楽からフリージャズから現代音楽まで、隙間も含めた空間の埋めかた、というか擦りかたがすばらしい。ひとつ前の”The Power of the Dog” (2021)もその前の”Phantom Thread” (2017)もすごかったけど。


The Princess (2022)

10月8日、土曜日の午後、ル・シネマで見ました。 邦題は『プリンセス・ダイアナ』。
冒頭は、パリのあの晩、リッツの前でパパラッチが追いかけていった - すげえなー、という声。

こちらはニュースや記録映像を繋いでいくドキュメンタリーで、ナレーションも説明字幕もなく、でもだいたいいつどこのなにを報道しているのかはわかる。(当時のことをよく知らない人たちにはどう見えるのだろう? というのは少し)

どちらかというとDiana本人や関係者の悲しみや悲劇、というよりも彼女の離婚前後から死に至るまでの(死に至らしめた)ニュース・メディアの明らかに狂った騒ぎようとかやりたい放題を、こんなにも、いくらでもあるよ、って繋いでいって、それは変わらずに今でも。

見ていると – NYは夜中だった – 亡くなった時のニュースのあの瞬間が蘇って、もし彼女が亡くならなかったらなー、って改めて思う。彼女が生きていたら どんなふうに歳を重ねてどんなことをしていったかしら.. などなどをつい考えてしまうのだった。

最後に流れる日本版の主題歌みたいなのには相変わらずうんざりしかない。
ある人や時代の記憶の集積のようなドキュメンタリーに横から「自分たち」の記憶を上被せして、それをビジネスにして喜んでいる醜悪さ。こういう体質、ぜんぜん変わらないけど文句は言い続けるから。ほんとに嫌だし最低だし。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。