10.25.2022

[film] 国道20号線 (2007)

10月15日、土曜日の昼、K’s cinemaの「ロードサイド・フィルム・フィスティバル」で見ました。

16mmで撮られた『国道20号線』を2Kスキャンして5.1chに整音したデジタルリマスター版の公開にあわせて、関連しそうな路上映画3本 – どれもみたい。けどみれず – を上映するもの。 英語題は”Off Highway 20”。

山梨のほう(というのは後で知った)の国道20号線沿い。大型のモールみたいの、ドンキとかのでっかいチェーン、ファストフード、駐車場、消費者金融、ゲーム屋パチンコ屋などが並んで、昼は殺伐としていて、夜はとても中に踏みこんで抜けられる気がしない。普段車で出かけることがないので、15年前からなにがどう変わって今どんなふうなのか、それって前世紀末からどう変わっていったのか、興味深くはあるのだが、とにかく日本の郊外にそういう世界が並んでいてそこに出入りしたり潜ったりして生活している人たちがいた、ということはわかる。

元暴走族のヒサシ(伊藤仁)と元やんきーのジュンコ(りみ)は同棲していて、ふたりとも定職は持たずにパチスロ(っていうの?)に入り浸ったりシンナー吸ったり喧嘩したり友達とふらふら遊んだり毎日てきとーに過ごしていて、別にそれでよいと思っている。そろそろまじめにやってみたらどうか、って高校の同窓で中古ゴルフクラブの取引とかをやっている闇金屋の小澤(鷹野毅)に声を掛けられて、ヒサシは彼の手伝いみたいなことをやり始めて。

彼らがどんなふうに遊んだり小競り合いを起こしたりするのか、どんなふうにシンナーを吸うのか、どんなふうに日銭を稼いだり借りたりそれを使ったり返したり、を繰り返しているのか、そういう日々の暮らしや活動(っていうのか?)を描きつつ、道の向こうや対岸から大きな影響をもたらす人とか波とか出来事が起こったりやってきたりすることはなく、道の向こうに走っていったら何かが見つかるわけでもなく、そういうのが決して起こりそうにない地点で、そういうのないかなーつまんねーなー、って言い続ける(しかない)若者たちの日々とは。

別に好きでやってるわけじゃないし、どっかに飛べるもんなら行きてーし、という鬱憤も含めて、ここに描かれている彼らの像はたぶん正しくて、それは2007年のにっぽんの地方、だけでなく15年経っている今だって、ひょっとしたら80年代、90年代の頃からずっと変わっていない地方と若者のありよう、というのは地方の空洞化とか若者離れ、都会(渋谷とか)の田舎化、にっぽん全体のヤンキー化、などを見ているとなんとなく、なにひとつ間違っていないように思える。でもそんな「正しさ」って一体なにになるというのか?

どうせなにやってもつまんねーし、日々てきとーにごろごろ遊んでお金が入ってくれば、それでまた遊んで楽しくやっていければ、それでいいんじゃねーの? なにがわるいの? という問いに対して、他の人とか地域とか社会とか世界に貢献できる仕事を地道にやっていった方がよいのだ、というのを社会が社会的に正しい答えとかありようを示すことができない(「勝ち組」のザマを見ろよ)ので、こんなことになってしまったのだ、なんて妄執を軽く蹴っ飛ばす痛快さはある。青春映画って、こういうもんよね。

シンナーやると世界が変わるよ、とかそういう話ではなくて、いまの世界で日々を暮らしたり生きたりすることは例えばこういうこと – よいのもわるいのも含めて - なのだ、というのを「国道」をひとつの基準線のようにして示してみること。ここで引かれた線から「近所」のアジアの人たちやブラジルの人たちのありようについて目を向けていくことは、ごくあったりまえだし痛快だし、もっとやれー、しかない。

「ロードサイド」の感じとしては” Two-Lane Blacktop” (1971) - 『断絶』のにっぽん版、くらいの不敵さと不穏さが覆っている。覆ってほしい。

上映後のトークではデジタル化にあたって背後の音は結構足したり整えたりした、って。確かに虫の音とか夜の通り沿いの音がすごくなっているようだったので爆音でもう一度。

自分の子供の頃、近所には国道14号線があって、国道だから間違いあるまい、って何かを信じこんでいて、そこを3時間くらいひとりで歩いて船橋の映画館で公開されたばかりの「ゴジラ対ガイガン」を見にいった。小学2年生くらいだったのに映画館もよく入れてくれたものだと思うが映画見て、とっても満足してまた歩いて帰ったらいろいろ怒られた思い出がある。いまもやっていることはそんなに変わっていないかも。

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