10.13.2022

[film] マイ・ブロークン・マリコ (2022)

10月2日、日曜日の午後、Tohoシネマズの日比谷で見ました。

原作の漫画を読んで知っているわけでもなく、キャストやスタッフをよく知るわけでもなく、タイトルが好きなのと、ポスター(ふたりの面構え)とかがよいのと、などなどでなんとなく。85分。

ブラック企業で日々ケツを叩かれてうんざりのシイノ (永野芽郁)が、昼間にラーメン屋でラーメンをすすっていると、店のTVにマンションから転落死した女性のニュースが流れてきて、そこに親友の(だった)マリコ(奈緒)の名前があったので驚いて混乱して、いてもたってもいられなくなる。

「なんで?」というのがでっかい吹き出しとして目の前にあって、なんで勝手に飛びおりたのか、なんで置いていったのか、なんで止められなかったのか、どうすれば悼むこと弔うことができるだろう、いまの自分になにができるのか、など、驚きと怒りと後悔と悲しみでぐじゃぐじゃになりながら、小さい頃からの彼女とのやりとり – よいのもむかつくのも - が次々と浮かんできて、それらはぜんぶ「会いたいよう」「なんでもう会えない?」に撚りあわされていく。

彼女の暮らした部屋に行ってみてももうほぼ片付けられていて、仕方なく彼女の実家に行って、白い骨壺になっちゃったマリコを見ると、小さい頃から虐待されたり性加害を受けてきた彼女の痣だらけの顔が浮かんであったまにきて、そこにいた父親をぶん殴り倒して骨壺を抱えて窓から飛び降り、裸足になっちゃったよどうしよう、って自分のアパートに戻ってカビだらけのDr. Martinを引っ張り出して、骨壺とマリコから昔貰った手紙一式を詰めこんで、昔マリコが一緒に行きたいな、って言っていた気がした「まりがおか岬」(という場所は実在しないらしいが)に行ってみよう、と。ここまでの後先考えないつんのめり感がすばらしいったらない。

「あたしには正直、あんたしかいなかった」
あんたしかいない、そんなあんたがいなくなったらあんたしかいないあたしはあたしじゃなくなっちゃうだろうが、見ろこれ、って。

バスに乗ってその岬のある青森の方に着いてもとりあえずご飯、とかどうしようか.. って途方に暮れていると後ろから来たバイクにカバンをひったくられてますますなにやってるんだ自分、になる。地元で釣りをしているマキオ(窪田正孝) - 蜻蛉のように薄い、どうでもいい存在感がすてき – に声をかけて貰ったりするものの、全てが宙に浮いたようになったところで、第二の飛びおり、というか墜落が。

わたしのぶっ壊れたマリコは飛び降りて亡くなって、彼女を弔おうとやってきた(他人が見たら後追いかと思う)シイノもそれにつられるように2回の飛び降りを実行することになるのだが、それをやってもマリコに再び会うことはできなかった or 生きのびたことでほんの少しは近づくことができたのだろうか?

これを例えば、マリコの受けた虐待や彼女の直面していた生きづらさをしっかり描いて、その上でマリコの死に向かう動機のようなところに接近していって、届かなくてごめんね.. のようなアプローチを取るのだったらべたべたで見ていられないものになったと思う。

でもこの作品は怒りと悲しみでコントロールを失ってやけくそのぼろぼろになったシイノが、ぼろぼろの自分のなかにマリコが抱えていたにちがいないなにかを見た気がして、そうやってマリコを抱きしめることができた、のかな? みたいになるまでを、感傷が入り込む余地のないやけっぱちのスピード感でもって描いている。 マリコがまだその辺を漂っているうちに、はやく! って。

もちろん死んだマリコはなにも応えてくれない。
ハッピーエンディングではぜんぜんない、でも地獄におちているわけでもなさそう(ちっ)。

物語としての落ち着きを持たせるためか、最後に手紙が読まれたりもするのだが、やけっぱちの疾走感がとだえることはなくて、会社のクソ上司からも.. (あの後どうしたのかな)

で、その状態になったところでエンディング - Theピーズの「生きのばし」(2003 – 約20年前の曲なのね)がバトンを繋ぐかのように - なんも保証できない明日を抱えてやけくそで走りだすのがたまんない。「くたばる自由に生きのばす自由」 ほんと半端に生きのばされてきちゃったもんだぜ、って - これは自分のこととして思ったわ。

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