10.19.2022

[film] 化粧雪 (1940)

10月6日、木曜日の晩、国立映画アーカイブの東宝映画の90年パート2で見ました。
パート1での『花散りぬ』(1938)や『夜の鳩』(1937)がとっても印象的だった石田民三の監督作。

原作は成瀨巳喜男で、脚色は岸松雄、成瀬が病気で降板したので石田民三が監督となった、と。ものすごく暗い話であるが、ものすごくよい、『花散りぬ』や『夜の鳩』にも連なる、痺れるように冷たい夜の映画であり、女性映画だと思う。

場末の寄席 - 喜楽亭を切り盛りする勝子(山田五十鈴)がいて、夜の寄席はがらーんとしていて、その反対側の路頭で鳴らしている街頭ラジオでは漫才が大音量で流れていて、そちらの方が賑やかだったりして、なんだかとってもやなかんじ。

勝子の父の利三郎(汐見洋)は病でずっと床に寝たきりで、兄の金之助(大川平八郎)は遊び人で外に出たまま殆ど家に寄り付かず、借金取りにも追われているようで、弟の幸次(伊東薫)は進学したいけど家がこの状態では、と工場勤めで腐っていて、勝子が父の生きがいの寄席をなんとかまわしているのだが、父の思いはいちいちダメ長男である金之助の方に寄っていってしまうので(病気だよね。病気だけど)家父長制の不条理を姉弟がひっかぶってかわいそうなの。

でも、勝子は日々ぶつぶつ言いながらもそんなに動じてもいないようで、下足番の善さん(藤原釜足)や彼の女房の清川虹子と一緒に土間の延長のような吹きっさらしの寄席を行ったり来たりしている。寄席の客席って、椅子席ではなくて、靴を脱いで土間みたいなところに勝手に座るだけなので、暇そうな人がそのまま寝転がっていたり、なかなかアナーキーなかんじがたまんない。(昔の名画座もそんなふうだったような)

でもやはり全体としてはお先真っ暗で、そういうところでカメラを正面に見据えて三味線を抱えて唄う山田五十鈴の姿がすばらしいの。演技とかパフォーマンスとか、そういうのを超えた、路地路頭に突っ立つ明日のないブルースシンガーの凄みがあって、じっと見つめて聴くしかない。

いよいよ寒さで商売も父親もどうしようもなくなってきたところで、かつて寄席で世話になったという人気講談師 - 一竜斎貞山が一晩限りのライブをやりましょうって、節分の晩にやってきて、そのときばかりは大盛況になって – 脱いだ草履とか靴のぐちゃぐちゃが – やんやの歓声と拍手を聞きながら父親はなにも言わずに静かに亡くなり、それを看取る勝子たちも少し涙を見せるくらいで慟哭することもなく、しょんぼりと終わるだけ。そこに節分の「鬼は外~ 福は内~」が被さってくる皮肉。父の死で鬼は外に出ていったのか、でも内だっていずれどうせなくなるではないか、って。

この辺のストーリーの冷たさ残酷さって成瀬の基本トーンだと思うのだが、石田民三の演出とぺたんとした街頭に置かれたようなカメラによって、表面を白くするだけの化粧雪によって、より殺伐とした救いようのないものになっている気がした。(それがよいのかも。なんでよいのか?)


釣鐘草 (1940)

10月9日、日曜日の午後、同じ特集での石田民三作品。59分。『三尺左吾平』(1944)との二本立て。
特集のパート1でかかった『花つみ日記』(1939)と同様、高峰秀子主演による吉屋信子原作の作品。少女小説「花物語」のなかの一篇。

小学6年生の弓子(高峰 秀子)と弟の雄吉(小高たかし)のなかよし姉弟は村医者のおじさんおばさんの家に住んでいて、彼らの実の父親は博打三昧で家を潰していなくなり、母親(沢村貞子)は自分の実家に引き取られて別々に暮らしている。弓子の学校の先生は、彼女はものすごく成績優秀なので女学校に進学させるべき、っておじさんに言いに来て、おじさんは自分のとこの子供(3人)だっているのに、いいよ、女学校どころか大学だって、と返すので弓子は有頂天になるのだが、実家にいる母の再婚話 – このままいられても - を聞いて、自分が早く自活できるようになって親子3人で暮らせるようにならねば、と女学校を諦めて授業料が免除される師範学校の寮に入ることにする。

でも寮で暮らしてがんばっていたある日、雄吉の具合が悪いと聞いて.. (急展開)

釣鐘草っていうのは、弓子が押し花にして大切にとっておいたやつで、雄吉はそれをこっそり貰ってこの花をお姉ちゃんだと思って大切に持っていた、とか、弟へのお土産に買っておいた木馬(結構大きい)を抱えて必死で家に走っていくところとか、切なくてやりきれなくて。 弓子が淡々と唄う挿入歌もよいの。この歌と『化粧雪』で山田五十鈴の唄うあの歌(のありよう)は同じものなのか違うのか。

『化粧雪』も『釣鐘草』も、戦争の頃にはふつうにあったであろうなんの捻りもない話としてごく簡単に想像することができて、とにかく男ってなんもしないで勝手なことしていい気なもんだよな、ばっかりになる。怒りを込めて、というよりそのぽつんとひとり残されてしまう女性の姿、石田民三ってそういう女性ばかり描いているなあ、って。 ここに”Wanda” (1970)の”I'm no good, I'm useless, I can't do anything..”がなんとなく聞こえてきたり。

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