7.18.2021

[film] 裸体 (1962)

7月10日、土曜日の晩、シネマヴェーラの『追悼特集 成澤昌茂 映画渡世』で見ました。
原作は永井荷風(未読)、脚本・監督は成澤昌茂、撮影は川又昂、音楽は武満徹と湯浅譲二(なにこれ)。

冒頭、銀座で働く事務員の左喜子(瑳峨三智子)が所長(千秋実)に放課後ひとり残されて、最近事務所でお金がなくなったりしているんだけど心当たりないか、と疑いをかけられて、あたしはそんなの知るもんかなんなら調べてみろやって服を脱ぎはじめる。これをきっかけに左喜子は所長に囲われていくらでも好きなものを買って貰える関係になる。

彼女が船橋の実家に帰ると、船橋ボーリングセンター(映画のなかでは「船橋ヘルスセンター」と言っている)が近くに見える海辺の村で、父(菅井一郎)と母(浦辺粂子)と祖母(飯田蝶子)は銭湯を経営しているのだが生活は貧しく苦しく、銭湯をのぞいてばかり近所の男とか佃煮屋の次男(川津祐介)とか、寄ってくる村男たちはいるものの彼女は相手にするつもりもなくて、所長におねだりして高円寺のあたりにアパートを借りてもらう。

でも所長が脱税の容疑でしょっぴかれたので、今度は不動産屋のあんちゃん(長門裕之)経由で金物屋の浪花千栄子の家に住まわせて貰って、仕事の方はバレエ教室の先生(田中春男)経由で紹介してもらった怪しげなクラブで大物政治家(進藤英太郎)と一晩寝て - そのときの料亭の女将が山田五十鈴 - 大金貰って、やっぱりあたしの体は芸術品だすごいんだ、って得意になって、ストリップ小屋でマリー・エンジェル(宝みつ子)の力強いダンスを見て感銘うけて確信して - あたしの方が胸大きいし - 勢いつけて夜の街に出ていくのだが…

こういうことになってしまった左喜子の境遇とか振る舞いについて、当時はこういう話はそこらにいくらでもあったんだろうな、という点も含めてその描写のリアリズムや彼女の強がりみたいなところの説得力は十分で無理ないかんじで力強いのだが、その向こう側に出てくる男たちが見事にろくでもないのばっかしで、そういう男たちも含めてあの時代をまるごと肯定しているように見えてしまうところはしょうがないのか。これは永井荷風だけじゃなくて、あの時代の昭和戦前戦後のおやじ作家みんなそうなのかもだけど、あの時代の女性のありようとか風俗とか、愛と郷愁をこめて語る、その独りよがりの(よっぱらいの)語り口がなんか昔から嫌でー。彼らって、女性には優しかったのだろうし暴力的なこともやらなかったのだろうけど、結局異性をあんなふうに書いて散らして、それが積まれて積もってのいま、について考えてしまう。彼らみたいな男共(の残党)が緊急避妊薬の認可を先延ばししてバイアグラを大急ぎで認可させたのだと思う。

もちろんそんなの海外でも同様なので、だーかーらー女性作家を! となるのだが、日本では未だに本屋にいくと「女性作家」という棚別(!)の括られ方をしてしまうくらいなので、ほんとどうしようもねえわ、っていつも思うことがいちいちいっぱい出てくる。オールスター総進撃ですごい人たちがぞろぞろ出てきて、浦辺粂子も浪花千栄子も山田五十鈴も宝みつ子も、みんな印象に残るのにどれもあの時代のスチールでしかない、というー。

62年の船橋の風景がカラーで見れる。船橋ヘルスセンターではドリフが全員集合したりしてて、あのあとららぽーとなんかになったのだが、この頃はほんとただの漁村だったのねえ。


いよいよTVが気持ち悪くて見ていられない段階に入ってきた。もうそんなのとっくに見ていない人たちばかりなのかも知れないけど、日本のスポーツ番組(ジャーナリズム?)って昔からほんとに異様な気持ち悪さだらけで - 週末の深夜とかなんであんなスポーツニュースだらけになるの? - それがそのまままるごと五輪の方にシフトして、その横並びで、平気な顔してコロナの惨状を伝えている。災害が起こっているその横で、惨状を広げる可能性がある要因を焚き付けてがんばれー、とか旗を振っている。 正気じゃない。正気だったらこんなことにはなっていないわけだが。

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