12.17.2019

[film] Ponette (1996)

9日、月曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。もうじき日本でも4Kレストア Blu-ray&DVDが発売されるらしいJacques Doillon監督作。

これは公開された当時 - まだJacques Doillonの名前くらいしか知らなかった頃にNYで見て(評判になっていたから)、こんなのかわいそうすぎるよう、ってぼろかすに泣いたことだけ思いだす。もう20年以上たって枯れたしだいじょうぶかも、と思って見てみたけどだめだった。 一応構えていたので前ほどではなかったけど。

Ponette (Victoire Thivisol)は交通事故でママを失ったところで、その横にいた彼女自身も怪我をしてギプスから出た指をしゃぶったりしていて、パパ (Xavier Beauvois)もつらくてたまらず、とにかくママはもう帰ってこないんだから頼むから泣くな、くらいしか言えなくて、いとこ達がいるおばさんのClaire (Claire Nebout)のところに彼女を預けて仕事でいなくなってしまう。 そのうちずっと大人が見ているわけではないBoarding Schoolにいとこと一緒に送られたPonetteは。

大人たちがいくらママの死を、もう戻ってこないの、もう会えないの、と語りかけてもPonetteにはわからない。まず死がどういうものなのか - 反対側のここにある生ですらどういうものかもわかっていないから、理解できなくて、だから大人たちが「死」という言葉を使ってこのことを説明しても、それはなんでママが自分の見える世界からいなくなって、突然自分と会えなくなってしまったのか、という問いには繋がらない(「神様」についても同様)。 なので今は無理かもしれないけどいつかどこかで会えるに違いないと信じているし、なんとかすれば、よいこにしていれば会えるはずなのだ、だってあたしのママなんだから、ママがこんなふうにあたしを捨てて消えてしまうなんてありえないし。

ここの純粋さは人間のそれというより忠犬ハチ公とか、動物の世界に近いやつの気がして、とにかく頑固で揺るがないのでいたたまれなくて、唯一なんとかできる道があるとしたら、ママがちゃんと言い聞かせることしかないのだな、と。 時間が解決してくれる、とか、しっかり言い聞かせれば、とかいうものではないの。「死」にしても「神」にしてもなにひとつとしてこの小さな子を救ってくれはしない(という大人の世界への批判)。 自分だって夏のお盆になればおじいちゃんは戻ってくるから、とかふつうに信じていたし、それのどこがいけないのか、なんでそれがありえないことだと言えるのか、誰も説明してくれなかったし。

Maurice Pialatの初期作品での子供たちの描き方もこれに近いかんじがして、デビュー作の”L'Enfance Nue” (1968)では孤児院から引き取られて悪いことばかりするFrançoisに対して、あるいは”La maison des bois” (1971)では疎開してきた母のいないHervéに対しても、単に手が付けられない困った子、というだけではなく、善い悪いとか、会える会えないの区別がつかない – それは教育、という仕込みで片付くようなことではなく、そういう子供たちはいるのだ。し、もちろんいてよいのだし、「大人」は彼らと共に生きていく必要があるのだと。こういう生や共生に関わる根源的な問い(あと、神? とか)を投げてくるところが今回のPialat特集に集められた90年代のフランス映画たちにはあるかんじがした。

ということをわかっていてもPonetteの泣き声と泣き顔はつらいわ。

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