5.20.2019

[theatre] A German Life

11日、土曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。Maggie Smithによる約100分(休憩なし)の独り芝居。 彼女にとっては12年ぶりの舞台出演だそうで、チケットはいくらキャンセル待ってもぜんぜん取れなくて、この日 - 最終日の朝にこれでだめだったら諦めよ、とアクセスしてみたら1枚釣れた。

本作の語り手 - Brunhilde Pomselさんが出てくる同名のドキュメンタリー映画 – 邦題『ゲッペルスと私』(2016) -  彼女はこれを105歳の時に収録した - は未見。見なきゃ。

舞台上には独り暮らしと思われる住宅の居間があって - 背後に質素なキッチンとか棚とか、右手の窓からはうっすら光が射していて、手前の椅子にぽつんと座ったBrunhilde Pomsel (Maggie Smith)が昔のことを静かに話し始める。

聞かれたことに答える、というスタイルではなく、ところどころ何かが/何かに引っかかる/引っ張られることに流されたり抗ったりしつつも、どこかのなにかに押されるように話していく。うちはごくふつうのドイツ人家族でした、父親は戦争でいないことが多くて、でも姉妹の数はいつの間にか増えていて..  食べていかなきゃいけない生活や家族のことがあったのでふつうの家の子と同じように仕事を紹介されるがままに事務のようなことをやるようになって、仕事はふつうにできるほうで、そのうちボーイフレンドができて、党員の彼はデートでナチスの集会に連れて行ってくれることもあったけど、あまり興味もてなくて、ユダヤ人の女友達もいたけど彼女はいつの間にかいなくなって..   やがて放送局の仕事を通して宣伝相ゲッペルスの秘書の仕事を紹介される。彼の第一印象は「すごくハンサムだと思った」などなど。 ところどころユーモアを挟みつつ、当時の生活は大変だったけど仕事はあったし困窮してどん底を這い回るようなそれでもなかった、と。

もちろん、現在の彼女の視点から振り返ることもあって、ユダヤ人の友達の消息を思うところからKristallnachtに触れ、なんて恐ろしいことを..  と涙ぐんでしまったりもする。でも基本は自分達家族が生きて暮らしていくことに精一杯で、「まわりのみんながそうしていた」し、故に「他にどうすることができたでしょう?」という台詞は何度か繰り返されていた気がする。

彼女の台詞はごく真っ直ぐにすとんと我々のなかに入ってくる。戦時下で暮していくのは大変で意識の高い人は集会に行っていたけど、そんな余裕もなく、ただただ生活のため懸命に働いていた。あんなことになるなんて、あんなことをしていたなんて知りようがなかった、と。 こんなふうにして歴史上「取り返しのつかないこと」は起こるのだ、と。

これは戦前 – 戦中の日本でも同じだったのだろうし、現代の日本でも同じことなのだろう(か)?
こんなふうに自分たちが支配・洗脳されていることをどうでもいい消費活動によって意識させないようにするのが、プロパガンダの、支配することの基本で、同じことが繰り返し起こってしまうのも時間と無知(恥)のなせる業で、だからきちんとした証言を記録しておくことも、そうして記録した過去の言葉から学ぶことも大事だし必要だし、だから教育もメディアもほんとうに大切なのだが、これらが(計画的に)骨抜きにされて機能不全を起こして相当やばくなっているのが今のにっぽん、というところにまで彼女の途方に暮れた声と表情は飛ばしてくれる。

Brunhilde Pomsel - Maggie Smithさんが伝えようとしたなにかについて、なぜ彼女たちは… というのと、どうしてそれらはこんなにも… という点を出発点にいろいろ繰り返し考えていきたい。彼女に罪はあったのか? -  あった。それは今の我々みんなが継いで背負っていくべき罪でもある。なによりも人の話を聞くこと、人のことを想うことってだいじだし、それがおばあちゃんとかひいおばあちゃんだったらなおさらでしょ。彼女たちが僕らに嘘を言うとおもう?

あとMaggie Smithさん、改めてとんでもないって。100分間、まったく澱みなく岩のような揺るぎなさで語り続け、完全に客席の目と耳を奪っていた。

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