12.06.2018

[film] Garry Winogrand: All Things are Photographable (2018)

11月27日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
今年のSXSW Film FestivalでSpecial Jury Awardを受賞している。

写真家Garry Winograndの作品と生涯を追って、でも彼自身が記録や証言やノートやメモをそんなに残しているわけではないので、彼の生前に関係あった人たちの証言やインタビューを彼の生涯に沿って並べていく。彼自身のインタビューやトークの映像、彼が撮った8mmの映像も少しだけ。もちろん写真だけは大量にあるので、なによりそれを見ろ、って。

ただものすごくいろんなテーマ(ていうかテーマを置いて撮っていないよね)の、ただ撮りましたみたいのが大量にあって捉えどころがないことも確かで、ある人はそれを写真界のNorman Mailerに例えたり、ある人は彼の被写体の人たちはみんなダンスを踊っている – 彼は写真界のJerome RobbinsでありBob Fosseなのだ、とか言うし。

写真家同士でいうと、同時期の「アメリカ」を捕えたRobert Frankとの比較(Robert Frankのアメリカはアメリカの外から来たひとのそれ)、あるいは括弧で括らないアメリカの風景を追うWalker Evans、並べて語られることの多いDiane ArbusやLee Friedlanderとの比較。 彼らを拾いあげて”New Documents” としてキュレーションしたMoMA写真部門の大御所 - John Szarkowskiの眼。

個々の写真を並べてそういう(キュレーター的な)視点から彼のカメラが追っていたもの、彼の写真が写しだしてきたものに迫る、それもよいのだが、とにかく彼の写真て、スクリーンにでっかく映しだされると今にも動きだしそうなすごい迫力で圧してきて、眺めておもしろいったらない、というのがまずわかったこと。とにかくそうやってぱらぱらと追っていくのが楽しくて、彼にとっての写真って言葉や文章でだらだらべらべら綴って追って考えるものではなく、大量に並べられたコンタクトシートやロールの間からぼんやり浮かんでくるなにかで、彼はそこに埋もれていられれば十分だったのではないかしら。

たまに被さってくる彼自身の声は割れんばかりのブロンクス訛りで、被写体に寄り添うなんて繊細なかんじはこれぽっちもない、彼が写真を撮っている姿なんて、道路にてきとーに突っ立って、フィルムをくいくい装着して(←この動きがおもしろ)ろくにファインダーも眺めずにぱしゃぱしゃ乱れ撃ちしてそれだけ。 見つめる/捕える、というよりも眺める/切り取る、そんな無造作な動作のなかから生みだされてくるDocuments -  “All Things are Photographable”て言い切る不遜さ、適当さ。 -   改めて”The Animals” (1969)や ”Public Relations” (1977) に見られるインターアクションのおもしろさ、フレームの外に向かっていって決して閉じることなく動いていく人々の目線とか。

でも”Women are Beautiful” (1984)はフェミニズム観点では賛否あったりするのね - (結局彼が追っているのは女性の乳首だけなのよ)- とか。

彼の闘病もあって西海岸の方に移ってからの作品は力が落ちたと賛否が分かれていることも知ったが、そうなのかしら。彼の写真て、例えば通りの隅に立って雑踏を見渡したときに最初に飛び込んでくるいろんなの、そこでわーっとくる瞬間をスライスしているようで、その風景がその瞬間にもたらす鮮烈ななにか(光)はそんなに変わっていない、失われていないような。 晩年は朝にしか撮らなかったという、その朝の光もまた(美しい、ていうのとは違うけど)。

とにかく、彼の写真がまだいくらでも残っているのであれば、可能な限り見れるし見たいし、見られるべき、て思った。 江戸の風俗画とか、誰のであってもいくらでも眺めていられるのと同じかんじかも。

ラストにあーら懐かし、R.E.M.の”Catapult”が流れるのがうれしい。”Did we miss anything?” てフレーズが繰り返される曲なの。

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