6.13.2018

[film] Les fantômes d'Ismaël (2017)

9日の土曜日の午後、近所のCiné Lumièreでみました。“Ismael's Ghosts”  『イスマエルの亡霊たち』
これ、英国ではほぼぜんぜんプロモーションされていなくて、最近だとC. Eastwoodの”The 15:17 to Paris” (2018)なんかもそうだったのだが、理由わかんなくて気付いたら終わっているパターンになるとこだった。

自分が見たこの回も客は5人くらい。とってもおもしろいのに。

冒頭がIvan Dedalus (Louis Garrel)という名の、得体は知れないけど実力はなんかすごいらしいスパイの話で、やがてその件は主人公の映画監督Ismaël Vuillard (Mathieu Amalric)が作っているらしい映画であることがわかって、Ismaëlには長く付き合っている恋人のSylvia (Charlotte Gainsbourg)がいて、ふたりには何の問題もないのだがある日、21年前に消えてしまった妻のCarlotta (Marion Cotillard)が戻ってきて、そこからいろいろな錯乱・錯綜・混乱が始まって、映画製作は止まっちゃって、どうすんだよこれ、になっていく。

過去のArnaud DesplechinでMathieu Amalricの演じるキャラクターがどれだけ大騒ぎの顰蹙野郎であったかを知っている – その中には“Ismaël”ていう名前のも” Dedalus”ていう苗字のもいる - 我々は、またこいつのこれかと思うのだが、今回の暴れっぷり、支離滅裂っぷりときたら過去最大級にひどい。”Jimmy P.” (2013)でいうとはっきりと「魂をケガしている」状態、というか。(これは賛辞なの)

タイトルの亡霊は、(たぶん)Ismaël自身のことではなくIsmaëlの周りに現れて彼を陥れる複数の連中のことのようで、しれっと戻ってきたCarlottaを筆頭にいろいろいて、でもCarlottaがほんとうに死んでいる亡霊なのか精霊なのかはわからないし、映画に出てくる弟のIvanも(スパイではないけど)なんか生きているみたいだし、Carlottaの父で高名な映画作家らしいHenri Bloom (László Szabó)も同様に荒れて暴れて大変なのだが生きているみたいだし、ここでの亡霊を定義をするとすれば、ふだんは全く関係ないところにいるくせに突然現れて過去から仕事から何から引っ掻き回して陥れてどうしてくれる、みたいな奴らのこと、と言えばよいか。

でもそれなら、別に生きていような死んでいようがどっちみちやかましく来るよね? そんな奴。
そういう点で、ここの亡霊は、これまでのDesplechinの映画に出てきた亡霊とはちょっと違う気がした。これまでの彼岸にいてじっと見ているふうではなくて、はっきりと目の前とか耳元にいてひたすらかき回す。実はかき回しているのはIsmaël自身ではないか、って思うのだが、彼はこれを彼にとっての見える亡霊とすることで - 彼がそれを明示的に言うわけではないけど – それで彼のなかで腑に落ちたりするものがあるのではないか。 ”Jimmy P.”で精神科医の彼が治療していったように、あるいは、”Trois souvenirs de ma jeunesse” (2015)での国境で封じ込められた彼が自身の過去を旅していったように。

Desplechinの映画で一番近いかんじがしたのは“Comment je me suis disputé... (ma vie sexuelle)“ (1996) – “My Sex Life... or How I Got Into an Argument” - 『そして僕は恋をする』で、あそこでのPaul Dedalusの、症例としか言いようのないような混乱はこの映画のそれ - 映画監督としてのキャリアの途上でどうしようもなくお手あげになって、それが境界もエンドも見えなくて、でもその彷徨ったり這いずったりの感触は、そこにあって、あるよね/いるよね、でそれで十分なの。
(この映画の場合、魂は実は向こう側にあったわけだが)

あとは、この混乱と騒乱の劇をすばらしい俳優たち - Mathieu Amalric, Marion Cotillard, Charlotte Gainsbourgが演じている。特にMarion Cotillardの孤児・ホームレス感たっぷりの、言葉少ないのに全てを語りつつ襲いかかってくるような生々しさときたらすごい。


この饒舌な - いろんな人がいろんなことを語る映画を寺尾次郎さんの字幕で見れたらな、と思いながら見ていた。

映画を見るとき、字幕がこの人だと絶対安心、という人は何人かいて、彼の字幕が付いたフランス映画とか香港映画は、とにかく彼の字幕さえ追っておけばラストに絶対に見えてくるものはあるから、というものだった。 ページをいくらでも遡ることができる翻訳とは違って、巻き戻すことができない、瞬間勝負の映画の字幕は、同時通訳で険しい山登りのガイドで、或いは映像と音楽に加えてフィルムに加えられたHidden Trackで、それが的確でないと側溝に落ちて泥にまみれて死ぬしかない。でも彼の字幕が画面から逸れてへんな感触とか化学調味料のかんじをもたらすことはなかった。登場人物たちの言葉が運んでいくストーリーは映像とひとつになって彼らの声としてダイレクトに入ってきて、そうやって何本かのフランス映画は本当に特別の、自分にとってとびきりのご馳走になった。

映画が人生や世界のいろんなことを教えてくれるもの - 自分にとってはそうだ - であるならば、彼の字幕は本当にいろいろなこと、大切なことを教えてくれた。
ありがとうございました。

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