5.14.2017

[film] Réparer les vivants (2016)

こっちから先に書いておく。 英語題は“Heal the Living”。 邦題は「あさがくるまえに」。

13日の土曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。
気がついたらCurzonではここだけ、1日1回の上映のみになっていた。
あぶなかった。 こんなにすばらしいのを見逃すところだった。

予告が臓器移植を巡る家族の葛藤とか癒しとか救いとか時間との闘いとかのドラマのように見えて、ちょっと苦手かも、だったのだが、監督が”Suzanne” (2013) のKatell Quillévéréさんと知り、なら見ないといけないわ、になったの。

早朝、家を抜け出して仲間とサーフィンに出かけたSimon (Gabin Verdet)は、その帰りに自動車事故にあって脳死状態になってしまう。病院側は両親に臓器提供の可能性について話をして、彼らは苦しみながらも結論を出す。 その反対側で、成長した息子ふたりがいる音楽家のClaire (Anne Dorval)は自身の心臓病が悪化して臓器移植しか残された道はないと言われていて、息子たちと一緒に過ごしたり(”E.T.”を見るの)、ピアニストの恋人(女性)のコンサートに行って再会したり、自分がいなくなる時に向けて準備を進めていくのだが、臓器が見つかったと連絡が入って。

メインのストーリーラインだけを書くとこんな感じなのだが、決して片方の電球は消えたけどもう一方のが点灯した。うまくつながってよかったね、みたいな話ではない。”Suzanne”の監督がそれだけの話を作るわけがないの。

Simonの両親のことはもちろん、彼が亡くなる朝までベッドにいたSimonの彼女のJuliette (Galatéa Bellugi)とのこと、病院のSimonの担当医、gold finchを愛する臓器コーディネーターのThomas (Tahar Rahim)、Simonへの態度で病院をクビになってしまう看護婦、Claireがちょっと心配している次男、かつての恋人のピアニスト、Claire側の医療チームのひとりひとりまで、どんなひとの挙動も暮らしも眼差しも思いも決して疎かにしないし、彼らひとりひとりの生も確かにそこにあって、SimonやClaireの生と共にある - 結ばれているとか繋がっているとか胡散臭いなんかを語るのではなく、ただ同じ時間のなかにあるのだ、ということを驚くほど精緻に丁寧に描いている。

”Suzanne”でもそうだったが、この監督はちょっとした眼差しの振れとかその交錯だけでドラマを紡ぐことができて、その振動や交錯が波のうねりとなってSimonが最後にサーフィンをした海(の描写がすばらしいの)ように深く分厚く押し寄せてくる。このうねりと勢いに圧倒されつつもひとは自分のパスを、ボードの切っ先をコントロールしてバランスを取りながら波を渡る。そこにある危なっかしさと、それでも波に乗れてしまう驚きと共に。

SimonとJulietteが最初に出会って恋に落ちる場面の胸が苦しくなるくらいに初々しい波ときたらどうだろう。この5分ぽっちだけでも見る価値じゅうぶんあるよ。

後半はずっとめそめそ泣きながら見ていたのだが、ラストカットでBowieの"Five Years"のイントロのキックが聞こえてきたところで決壊してぼろんぼろんに泣いてしまった。客が3人くらいしかいなくてよかった。
ずるいよあんなの反則だよ、て思ったが、よく考えてみればこの映画の主題はあの頃のBowieが必死で手を差し伸べてきた悲痛なまでの想いにはっきりと共振している。 

そして「母に捧げる」という字幕が。 母の日に格好の一本でもあるのだが、フランス映画祭で一回だけ上映されてから一般公開は9月って ...
(おそすぎ。それと”Hidden Figures"は性懲りもなくやっぱりやりやが…(怒・略)
一刻も早く、フランス映画祭で見てください!(おすぎの気分)

あと、Alexandre Desplat さんの音楽も見事なのだが、なんだかんだBowieの一曲でふっとばされてしまうの。


あした、月曜日の午後からマドリッドに行って、火曜の晩に戻ってきます。
ちょっくらサッカーでも見に、とか言えたらいいんだけどねえ。仕事なんだねえ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。