12.01.2014

[film] Stereo (1969)

29日、土曜日の昼間、フィルメックスでDavid Cronenbergの初期の2本。
前売りを買っていなかったので、10時過ぎにまず当日券買いにきて、そこから新宿のDisk Unionに走ってRSDに並んでレコード買って、上映前にふたたび有楽町に戻る、とかバカなことをやっていた。

「ステレオ/均衡の遺失」 63分。制作費は$3500だって。

近未来の大学だか研究所だかのような建物に若者が降りたって、彼がこれから参加するらしい実験の目的とか能書きとかがナレーションで被さる。 音はこのナレーションの声(単数ではなく複数の声)だけで、画面に登場する被験者と思われる人たちの会話や物音は一切聞こえてこない。 音楽もなし。

実験ていうのは7人の若い男女の被験者を同じ実験棟に軟禁してテレパシー能力の強化が個体間のコミュニケーションとか恋愛行動とか集団生活に何をもたらすかを観察する、ていうやつで、テレパシー能力強化のために喋れないようにされた被験者たちの行動(あんまし変なことはしない)を監視カメラみたいなカメラ(撮影はCronenberg自身)が追っていく。

この研究の理論と仮説はLuther Stringfellow博士によって立てられて、筋立て=ナレーションは研究報告ふうに仮説と被験者に行われたこと観察されたこと、などを機械的に叙述していく。 ところどころえらくうさんくさいのだが、これ、映画だし。そういうもんだし。

理路整然とかっこよく統御され展開されてきたかに見えた世界が予期せぬ暴力とか陰険さとか想定外のなんかによって突然に攪乱されたり分断されたりしておじゃんになって(あーあ)(ざまみろ)ていうのがCronenberg的世界の基調にあるのだとしたら、その要素はすでにこのデビュー作のなか、あの迷宮のような建物のなかで既に現れていた、ということになる。

テレパシーっていうのは言語とかメディウムを介さずにダイレクトに、しかも共時かつ即時に情報や指令が行きわたるからすごい、とか、でもそこには相互の愛と信頼がないといかん、とか、つまりは、つまりは、とかいろんな前提とか論理の積みあげからなる仮説とその実験は、ホモヘテロ関係なしの乱交状態とか、二名の自殺者をだして、暴動とか革命とかに至ることもなく、結果はうーんまだわかんないかも、ていう失敗とも成功とも言い切れない微妙なところにおちて、つまりだれも断罪されないままこの世界は続いていく(らしい)(あーあ)。

最近の若者のLINEで繋がっている、しかも四六時中繋がっている(繋がっていないとしんじゃう)世界とかグループとかのありようって、この世界に近いよねえ、とかおもって見てた。
コミュニケーションて、そんなにしたいか?  だいじか? とか。 

でもおもしろかったねえ。 これで69年かー。

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