7.08.2013

[film] 3人のアンヌ (2012)

29日の土曜日の午後、神保町のあと、新宿でみました。

英語題は"In Another Country"だって。
"Another Country" (1984)と間違ってレンタルしたひとがいたらちょっとかわいそうだ。

冒頭から、あーホン・サンスだあ、になってしまう。よくもわるくも。

3つの独立したエピソードからなっていて、それぞれに3人のアンヌ(イザベル・ユペール)が出てきて、彼女は韓国を訪れている①映画監督だったり、②夫から離れて密会する人妻だったり、③韓国人女性に夫を寝取られてしまったりで、それぞれのエピソードで出てくる周囲の人物に多少の異同はあって、アンヌもちょっとずつ違うアンヌだったりする。 3つに必ず出てくるのは浜辺でライフガードをやっている若者で、英語はあまりしゃべれないけど声がでかくてひとなつこくて、夜はペンションで給仕のバイトをしていて、ペンションと浜辺の中間くらいの場所にテントを張ってそこで暮らしている。あと、ペンションの鍵とかを管理している若い娘さんも必ず出てきて、彼女もふつうに親切なの。

アンヌは既に進行中の、もしくは過去の恋愛を引き摺ったりしているので、ライフガードの青年とアンヌの出会いが恋愛に転んだり、ということはない。 ないのだが、酔っぱらったアンヌの挙動とか土地に詳しくないのにすたすた無頓着に歩いていく姿を見ていると、なにが起こってもおかしくないかんじが十分して、でもそれが万が一転んだからといってどうだというのか、それがどうした、で、だーかーら結局どうすんだよ!ふん、 みたいなところにいらついたりしたら、それこそがホン・サンスの罠で、落とし穴なの。

酔っぱらったり、心ここにあらずのOn the Road状態でキスしちゃったり手をつないじゃったり、そういう状態、そういう動き、そういうドラマって、恋愛を起点としたあれこれとはどこがどうちがうのか。 たとえば情熱、たとえば修羅場 - それらはこの映画でもちらっと垣間見えたりするのだが、やっぱりそれがどうした? なんだよね。

なんでさー、映画にきれいな女の子が出てくるとみんなそこに「恋愛」を期待するのかしら。「恋愛」ってなんでそんなに特権視されてしまうのかしら。 やってらんねえやー、ってぐだぐだと酔っ払いの戯言みたいになっていくの。 恋愛に至りそうで至らない状況とかプロセスを描きつつ、我々を着地点のみえない、ボタンの穴が見つからない居心地のわるさの只中に曝して、さらにそれが何度でも、性懲りもなく繰り返されることを予告する。

これ、タイトルの「3人のアンヌ」を「3人のライフガード(仮)」に置き換えることだってできるはずで、そうするとこないだの「女っ気なし(仮)」のシルヴァンものみたいになる。

ぜんぜんぱっとしない観光地(?)のぱっとしない宿屋、ぱっとしない登場人物たち、からっとしない天気、これらはすべて、世界はときめく恋愛で成り立っているわけではないことを冷酷に宣言しつつ、でも、だって、たとえば、といった砂を噛むようなくどくどした半熟の、よっぱらいの世界に我々を引き摺っていこうとする。
その一貫した態度というか倫理というか、はすごいなあ、っておもう。 なにが彼をそこに向かわせているんだろ。

あと、イザベル・ユペールさんもすごいよねえ。
①のサンダル、②のハイヒール、③のぺったんこ靴、それらをつっかけてぺたぺたすたすた歩いていく後ろ姿が本当に素敵で、惚れ惚れする。背中に惚れるの。 かっこいいー。

なんとなく、2003年にイザベル・ユペールさんが権利を買い取った"Wanda" (1970)を思いだした。
Wandaが彷徨いの果てに韓国にたどり着いたら、例えばこんなふうになったのかも。

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