7.15.2013

[film] とべない沈黙 (1966)

6日の土曜日、『愛のあしあと』のあと、Uplinkの『<イワサヒサヤとはナニモノだったのか?> 追悼 映像作家・岩佐寿弥特集』の初日に見ました。

北海道の男の子がナガサキアゲハを見つけて、がっこの先生からはそんなの北海道にいるわけない、と言われるのだが、そこから遡ってアゲハの幼虫が長崎から萩 ~ 広島 ~ 京都 ~ 大阪 ~ 香港 ~ 横浜 ~ 東京と流れて行く股旅と、他方でとべない幼虫がしがみつくニンゲンには愛とか原爆とかヤクザとかいろいろごたごた面倒なことがいっぱいあり、それをなかなか豪華な俳優さんが演じていて、そんな運命のうねりのなかではアゲハが北海道の原っぱを跳んでいくことになんの不思議があろうか、という。

季節とか土地とかの制約を受ける蝶の生態と一生に対比するかたちでヒトの過去とか因襲とか集団とか戦いとか恋愛とかのあれこれをドライに切り取って、横に並べてみたらどんなふうに見えるのか。

という見方のほかにも、映画を撮る/作る、という行為が切り取った世界を我々に見せて伝えることの意味、それが64年(撮影された年)に起こることの必然、など、所謂「実験映画」が実験室で追求するテーマよりももう少し我々の視野とか日常に近いところで「映画」を再定義してみる、してみよう、という強い意志が伝わってくる。

誰も撮ったことのない、見たことのない映像を撮る、どうやったらそんなことができるのか、を知りたければ、例えばこの映画がやろうとしたこと、岩佐寿弥を含む3人がこの脚本を考え、改稿していったプロセスについて考えてみること。

例えば加賀まり子の美しい、と単純には言えない透明な生き物のような表情と蝶の目線になったカメラの動きのとんでもなさ(どうやって撮ったことやら)とか。
広島の原爆追悼集会でヒトがアリみたいにひしめいている中、加賀まり子を追い回す蜷川幸雄、をロングで捉えるところのおもしろさとか。

録音のひと以外、スタッフにプロフェッショナルはいなかったというのもびっくりだが、その後彼らはどんなふうに変わっていったのだろう。この映画の旅は、スチールで参加していた森山大道のその後にどんな影響を与えたのか、とか。

上映後、NFCの岡田さんによるトークは岩波映画の青の会から始まり、この映画の脚本やタイトルの変遷を通してこの映画のスタッフが、スタッフ間の友情と情熱がどうこの映画を作り上げて - 「映画して」いったのかまでを語り尽くすすばらしいものでした。これを聞いたらこの特集の作品ぜんぶ見たくなる。 ... 見たいんだけど時間があ ー。

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