1.26.2013

[film] 刺青 (1966)

20日の日曜日の昼間、たまには軽いやつでも、と渋谷に"Seeking a Friend for the End of the World"を見に行ったら売り切れてて唖然(だからぁ…)。 なんかないかー、と探したらこれやっていたのでとりあえずオーディトリウム渋谷に向かって、見ました。

映画で合コン、みたいなイベント(?)の一部で、土曜日には若尾文子さんのトークもあったらしいのだが、この回の客は10人くらいだったかも。

冒頭、どこからか攫われてきたらしいお艶(若尾文子)が麻酔を嗅がされぐったりして、露となったその背中に彫師がざくざくと(この音がまた…)刃を入れていく、朝にそれを彫り終わったとき彫師は魂を抜かれているのだが、見ているこちらもそれは同じで、彼女の背中に宿った女郎蜘蛛がこちらの頭のなかでもじょろじょろ動きだす。

こうして彼女は襦袢の裏に蜘蛛を潜ませる染吉 - スパイダーウーマンに変容し、彼女に集ってくる悪党共に糸を絡めて血祭りにあげていくの。

あるいは、それは皮膚とその裏側に流れる血のせめぎ合いでもあって、権次とか徳兵衛とか旗本の芹沢とか、それらぎとぎとの悪人(顔)を殺める際の決して簡単にはいかないどろどろの縺れあいと流れだす血の赤さ、蜘蛛はそのなかで、そいつらを食べて生きて死ぬ、ということがラスト、蜘蛛の巣の上での新助(子蜘蛛)と彫師(親蜘蛛)のやりとり、彼女の背中に突き立てられた刃によって鮮やかに - あの瞬間の光の美しいこと - なるの。

それは単なる皮膚の上、たった皮一枚(あるいは、その皮膚を覆い隠し、露わにする布切れ数枚)の上で隙間で、いろんな人たちが滅んでいくドラマであって、その場所において愛とか欲とかって、一体なんなのか、何でありうるのか、と。

というようなことよりも、どのイメージもすさまじくて、暗く陰惨なところ、色艶やかなところはどこまでも、レンズに取り込んだ光と画面の端から端までぜんぶ使って、彫師がフィルムに彫りこむかのようにお艶 - 染吉の姿を浮かびあがらせている。
美しく奇妙な蜘蛛の生態と一生、を捉えるにはここまでやる必要があったのね、と。

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