9.17.2012

[film] La Chouette Aveugle (1987)

アンスティちゅ、で『犯罪の系譜』に続けて見ました。『盲目の梟』。英語題もそのまま"The Blind Owl"。
字幕なし。フランス語、アラブ語、スペイン語が飛びかっていて、事前の配布資料のみ。
93分、画質は良いとはいえないビデオのそれ、それでも全く問題なく、映像のなかに引きずりこまれる。

ベルヴィルの古い映画館にアラブ系の男(H - 35歳)がどこからともなく現れて、そこで映写の仕事をすることになる。ある日映写室の小窓から見た映画の、そこに出ていた踊り子に目を奪われる。他には同じく映写をしている同僚とその彼女がいて、ある日突然現れた叔父がいて、甥も現れて、更には映画に出ていた女性が現れるとか、映画の世界がこちら側に浸食してくる、それが夢なのか現実なのかわからない、どうでもいいような地点(いろんなひとがいろんなことを言う)から、それでも世界を眺めている。 筋はそんなふうな、とても筋とはいえないような散文的な映画なの。

イランの小説家Sadegh Hedayatの小説(かつて白水社から翻訳が出ていた)をスペインの劇作家Tirso de Molinaが脚色し、それをフランスの地方都市ベルヴィルの委託を受けたチリの亡命作家が映画化する、そんな経緯を経たこの映像作品に原作のエッセンスのなにがどれだけ入っているのか判りようもないが、たぶん元の構造がいろんな接合とか翻案とかを許すかたちになっているのかしら。

シュルレアリスム系、とか、ラ米文学の魔術的リアリズムとか、ぐんにゃり歪んで変形してしまった現実を描くのとはちょっと違っていて、これらは全て映写室の小窓を通して映し出される現実(それを映写するのは自分)であり、そこを生きるということはどういうことなのか(というリアリティ) - それは生きやすい、行きにくいというのとは別の軸 - 生きる速さ、のようなとこにある - をこの映像は示しているように思えた。 実験映画、というかんじもあんまない。

盲目の梟に、世界はちょっとだけ違って見えるのかもしれない。
でも捕食はできるし、生きていけるの。

上映後のトークはラウル・ルイスのイントロダクションとしてはすばらしく解りやすいものでした。
ただ、きちんと追っかけて咀嚼するのには時間がかかるだろうなー、とか凡庸なことを思った。

この作品は来週金曜日から始まるNew York Film Festival(50周年!)でも"Views from the Avant-Garde"ていう特集枠で上映されるの。
10/5の12:30pmからと10/6の10:00pmから。ビデオではなく16mmで、字幕も付くよ。

いたら行くんだけどなー。 どうかなあー。

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