9.16.2012

[film] Новый Вавилон (1929)

例によってぜんぜん書いてる時間がないー。 また束ねて出します。

5日の晩に見ました。
NFCの特集『シネマの冒険 闇と音楽 2012 ロシア・ソビエト無声映画選集』。ピアノ演奏つき。

普仏戦争の頃のフランスのお話しで、パリの百貨店、「新バビロン」でわいわい慌ただしく働く人たちの描写があって、そこに突然プロイセンが攻めこんできて、パリが陥落して、でもコミューンの人たちは懸命に抵抗して、でも「パリ・コミューン万歳」と言いながら銃殺されていく。

影と闇のなかにある市民の顔のどれもがすごいの。
"Metropolis"(1927) 並みに引きつっててこわくて、特にあの兵士の立っている姿(宣伝チラシの表紙にある)のすごいことったらない。
「絵になる」とか、そういうレベルではなくて、彼は透明な、何も通さないような目をして、ドタ靴とごわごわの軍服を纏って、何万といたであろう兵士の重ね着された抽出物のように、重さと吐く息をもった亡霊、生霊としてそこにいる。 あとは店子のおねえさんのやつれてささくれだった顔の強さとか。 このひとたちはみんな俳優さんなんだよね? いちおう。

市民が軍に殺されていく、戦争だから、というその悲惨さが中心にあるわけではなくて、軍もひどいけど、「新バビロン」であるところのパリの頽廃も相当なもので、ぼろぼろの両者が土砂降りのなかで泥沼出口なしの戦いを繰り広げていく、それをそこから50年後のロシアが映画として撮って、それがこういうかたちで残っていて、80年後の腐れに腐れ果てた東京で、われわれが見る。

Звенигора (1927)

7日金曜日の3時の回に見ました。『ズヴェニーゴラ』 - 英語だと、"Zvenigora"。
『新バビロン』見たら、これも見ないわけにはいかない気がした。
ウクライナのスヴェニーゴラの山の麓に眠る宝を守るおじいさんと、彼のふたりの孫の行末を通して、ウクライナの地下資源を巡って繰り広げられる戦争だの革命だの、それが孫たちそれぞれの人生に及ぼした影響を、魑魅魍魎がうじゃうじゃいた古代から、新バビロンのパリまで裾野を広げてでっかく描いてしまう。 

それをモンタージュとかスローモーション/ストップモーションといった映像技術をばちばち当てながら、映像で世界と世界の歴史を描ききってやるのだ、という意志が充満した作品でした。

演奏なしの、ほんもんのサイレントだったせいか、寝息といびきの裾野もそうとうでっかかったが、みなさんロシア千年の夢をいっぱい見ていたに違いないー。


というわけで、7日の金曜日は会社を休んで展覧会ふたつと映画1本見たのだった。

まず上野の『ベルリン国立美術館展 - 学べるヨーロッパ美術の400年』。
終っちゃいそうだったし。

別に今更400年を学びたくもないひとにとっては、見るとこあんましない1500円。

デューラーの「ヤーコブ・ムッフェル」、クラーナハの「ルクレティア」に「ルター」。
レンブラント(派)の黄金兜に「ミネルヴァ(美輪明宏)」。
ヤン・ダヴィス・デ・ヘームのワイングラス。
こんな程度。フェルメールの首飾りは、まんなかに広がるクリーム色が素敵だけど、ふつうかー。

素描だと、ボッティチェッリのダンテ『神曲 - 煉獄篇』とミケランジェロのヘヴィメタのぐじゃぐじゃと。

それから京橋で『スヴェニーゴラ』の3時までにまだ少しだけ間があったのでブリヂストン美術館に行って、『ドビュッシー 、音楽と美術 ー印象派と象徴派のあいだで』を見る。 これも1500円。

ブリヂストン美術館、大学の授業で模写に通って以来だわ。30年ぶりくらい。

避難訓練の社内向け業務放送ががんがん流れるなかで見たのがいけなかったのかもだが(うん、きっとそうだね)、ドビュッシーだけじゃネタ切れしちゃうからって、ラファエル前派からジャポニスムから古代の壷から、なんでもかんでも持ってきて置いてみて、音楽と美術って関係あるよねー、あ、文学もねー、影響与えあってるもんねー、とか。 

それがどうした、だわよ。 茶でも飲んでろ、だわよ。

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