1.11.2011

[film] Film socialisme (2010)

月曜日、仕事は夕方から出ればよろしい、と言われたので空いた時間で見ました。
日本での映画はじめ。

この作品、米国ではNYFFでお披露目されて以降、まだ一般公開はされていないの。

おもしろかったー。 いじょう。
寝てるひともいっぱいいたし、寝てしまってもおかしくないかも、と思うが、このおもしろさは異常だ。 
なんでこんなつまんなそうな映画を楽しくおかしく見れてしまうのか。
映画は音と画像とテキストからなる。 そう、これだけなんだよね。

ずうっと、"The Social Network"との対比であれこれ考えていた。
ここでの"socialisme"は、「社会主義」、というよりはどちらかというと"Social Network"の”social”に"isme"をくっつけたやつのことで、冒頭の「水は社会のもの?」「お金も?」というラインに「Netは?」を加えてみることにあまり違和感はないかも。

第一部の金貨の話とFacebookが露にしたコンテンツ、とか。
「幾何学」に対置される「アルゴリズム」、とか。
金の流れが正義だの法だのをつくる、あれこれSettleして判例をつくる。

21世紀の最初の10年で西欧における"social"の概念、そのありようが変わった、少なくとも従来のそれではなくなった。 それは例えばこんな奴ら、とかこんなコト共、とか。

"Social Network"にも客船ではないが競艇の舟が出てくる。
ハーバードのエリートが漕ぐ舟はヨーロッパのそれに負ける。

客船に乗っている選ばれた階級の人たちと、ハーバードの選ばれたメンバーからなる社交クラブと。 
威厳だの伝統だのはあるみたいだけど、それがどうした? 的な人たちの、これもまた"social"。

どっちにもプールがでてくる。ダンスクラブで踊るとこもでてくる。
どっちもあんまぱっとしない人たちが。

いつものゴダールの膨大な量の引用とその羅列、それとおなじような"Social Network"の主人公たちによる、かたかた延々つづくおしゃべり。どちらも決定的な力や瞬間を、カタルシスの快楽を、画面にもたらすことはない。 しかしそれらは常に画面と不可分ななにかとして、ある。

侵略と征服の、「外戦」の歴史としてのヨーロッパ、その拡充と膨張の時代を経て、はっきりと停滞と内省の、「内戦」の時代に入ったヨーロッパとその周辺。
その行方を決めるのはメディアであり、子供たちであり、アルパカにロバ、である。 親たちはお手上げで、もうどうすることもできない。(第二部)

"Social Network"も、ユーザ規模の拡充を通して、世界規模のNetwork基盤と テンプレートを作り上げた。 でも、それを作った当事者はそんなことどうでもよかった。
彼が望んだのはEricaたんに「歓待される」ことで、それこそ闇雲な「内戦」の日々としか言いようがなかった。

Social Networkの話の中核にある関係者間の審問の過程でのダイアログの数々。
そのまったく意味を為さないようなやりとりのいくつかは、"socialisme"で切りとられたいくつかの断片と、そのありようも含めて極めて似ているように見えた。
本質を突いているようで、実はなんにもならなかった、ゲームの約束事のような、ユーザマニュアルの記述のような、空虚な言葉 - 対話の束。

だがハリウッドを作ったのはユダヤ人だ、というラインもあった。
Facebookをつくったのもユダヤ人だ。

決定的なのはラスト近くの「伝染病なしに人類の進化はなかった」と「ペストは連合軍が上陸した日からはじまった」、そして「自由は高くつく。自由は金や血によってではなく、卑劣さ、売春、裏切りによって買われる」というあたりね。

もちろん、こんなのは全部たんなる偶然にきまっている。
しかし、このふたつが、ブッシュの恐怖の時代が終わりを告げ、対話と友愛を柱に世界中から「歓待されて」登場したオバマがなんとなくどんよりしてしまった2010という年に、米国と欧州の両岸で点滅していた、というのはおもしろいよね。

ゴダールというOperating System(OS)を考えてみる。
このOSはオープンソースで、音と画像とテキストをあつかう。
このOSは熱狂的な信者を持っていて、それを愛するひとは、その上でどんなアプリが動くか、ということより、その機能の出来映えや、洗練された思想や、基盤としての強靭さに常にしびれてきた。

Facebookは(も)、ネットワーク上に新しい基盤を立ちあげる、という試みだった。 
完全インディペンデント、コマーシャルフリーで。  金貨も宝もごみもくそも、みんなここに載ってくる。

今回、80年代からSonimageと呼ばれてきたこのOSは久々のメジャーバージョンアップ(3.0? 4.0かな? 「愛の世紀」以来?)をして、結構貪欲にいろんなものを取り込んで(携帯、動画、デジカメ連携とか)、えーこうくるかー、みたいなかんじになった。

稼働保証エリアはレマン湖近辺から地中海を中心とした欧州全域にひろがった。
でも依然として米州とアジアは稼働保証対象外である。

画面や音が汚れた、とか言われているようだが、こんなのぜんぜんだとおもった。
まだじゅうぶん綺麗だし、かっこいいし、それらぜんぶ計算ずみだし。
おなじようにすごい"Social Network"の音響/音楽と比べてみよう。

Reznor氏の作り出したアンビエンスも相当にすごかったが、この映画のガキの寝息と連動する電子音とかを聞くと、はっきりとやられたー、とかおもう。ばかみたいだけど。

それにしても、あの海のショットのすばらしいことときたら。
あんなにすばらしい海て、そんなに見れるものではないよ。

あとは猫2匹と、ピアスしたアルパカ(の耳のうごき)ね。
笑えるところもあんまないし、じじい本人も出てこないし、べっぴんさんもエロも一切排除した今回、ここのところは捨て難い。

あーでも、Patti SmithとLenny Kayeがでてくるとこだけ、なんかなー。
あそこだけ、なんかへんな「意味」が浮かびあがってしまうように見えて。

ラストの"No Comment"は言うまでもない。 
「書き込み不可」、でばっさり。

うまい。

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