1.05.2011

[film] Faces (1968)

『わが谷は緑なりき』のあと1本とばして、6:30から、同じWalter ReadeでJohn Cassavetesの"Faces"をみる。

ちなみに間でスキップされてしまったのはKuburickの"Paths of Glory" (1957)で、何度も見たことあったし、お正月から戦争なんてごめんだ、だったからなの。

でもそれいうなら”Faces”の修羅場だってじゅうぶんごめんだ、のはずだとおもうよ。

リストレーションはオリジナルの16mmネガから35mmにブローアップしてて、白黒のがたがたしたかんじがとてもよい。 ガレルの初期のモノクロ画面みたいな磨りへったコンクリートのざらっとした感触がかっこいいの。

この作品がIndependent映画の金字塔と言われているのは、実際にCassavetes自身が走りまわってお金を工面して完全自主制作した、というのもあるが、フレーミングやダイアログ、時制からもフリーになって、それらを注意深く編集しながら、ある晩、複数の登場人物の間で起こったらしいコトの連なりをドキュメントしてそこにドラマを表出させる、という制作プロセスそのものも従来の習わしから自由になった、というところがおおきい。

映画のなかのダイアログの殆どは酒の席の酔っぱらいのたわ言みたいなもんなのだが、着目すべきは極度にクローズアップされた顔、「あんたは...」て相手を睨みつける目、歪んで毒をはきだす口、それらがくっついた頭(うしろ頭含む)、だとおもう。

ひとの話なんかてんで聞いてやしない頭、じぶんのことしか喋らない頭、他人のことなんてぜんぜんわかるわきゃない頭。 これらの頭とか顔が世の中にどれだけの禍だの毒だのを撒きちらしてきたことか。

これらの頭が粗い粒子の白黒のなかに浮かびあがったときに像として現れる異物感、というか変なかんじ。

MOMAのWarholの"Motion Pictures”の特集でのいくつかの作品を見たときにも感じたことだが、これらの頭が我々の視野に入ってこちらを凝視してきたときの違和感、異物感というのはまちがいなくこの作品の基調にあるテーマのひとつで、それはこれがフィルムだから起こるのだ、としか言いようがない。

そういうなかでこそ、主人公のJohn Marleyの鬼瓦みたいな顔も、Gena Rowlandsの霊のような白猫の顔も、夢に出てきそうなおっかなさでがんがん迫ってくるのだし、Lynn Carlinはそれらが怖くて自殺しようと思ったのだろうし、Seymour Casselはそれらにびびって屋根づたいにぴゅーんて逃げたのだとおもう(ほんとに、惚れぼれする逃げっぷりだねえ)。

そして、だから、ラスト、朝の光のなか、ふたりが階段に交互に座って放心している様子がとってもよく沁みるの。

Cassavetesがこの後のフィルムでずっと追い続けたいろんな修羅場の情景、というのはあるいみ、ここが出発点で、結局はここに帰ってくるのだなあ、とおもった。


この"Faces"の後にも上映は続いて、でも"Sweet Sweetback’s Baadassss Song"(1971)はお正月とはちょっとちがったので、見ないでおうちに帰りましたとさ。

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