5.11.2023

[film] ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい (2022)

5月4日の午前、シネクイントの白の方で見ました。
監督はこれが商業デビュー作となる金子由里奈。原作の小説は文庫本買ったけどまだ読めていない。

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」という命題の正しい正しくないについて問う、というよりはそういうのが成りたってしまう今の若者たちとそのありよう、についてのドラマなのだと思った。ぬいぐるみとしゃべる人はずっと大昔からいるのだし。

冒頭、七森(細田佳央太)が女子から「つきあってほしい」と言われて「ありがとううれしい、けど..」って固まってしまい、困惑した彼女は向こうに行ってしまう。

大学(立命館、とわかる)に入った七森は麦戸(駒井蓮)と知り合って、一緒に新入生のサークルを探すなか「ぬいぐるみサークル」のチラシを見ておもしろそうだね、と扉をたたく。と、壁いっぱいにぬいぐるみが並んでいて、ぬいぐるみを作ると説明されていたチラシとは違って、みんなどれかのぬいぐるみを相手にぶつぶつしゃべったりしている。自分がそういうのを目にしたらそのまま何も見なかったことにしてさいなら、って去る気がするのだが、このふたりは興味をもって、作るというよりはぬいぐるみとしゃべるサークルで、好きなことをいくらでもしゃべってもいいし、他人の話していることを聞いてはいけない(イアホンは経費でおちるから)、そういうサークルのメンバーになる。

以降、サークル内部の人間関係ごたごたとか、サークルの外からの荒らしとか虐めとかの波乱が起こるわけではなく、なんとなくそこに参加して自分でぬいぐるみを作ったり、他の部員を眺めたり、他の部員よりは社交家でふつうの人っぽい新人の白城(新谷ゆづみ)と付きあってみたりとか、そうしていると麦戸が外に出られなくなってしまったり、そんな彼らのぬいぐるみに対してでなければ言えなくなっているような内面と外面が、たまにぬいぐるみViewで捕らえられたり、ほつれたぬいぐるみの吐息のようなおならのような音楽が聴こえてきたり。

前半はそんなかんじの、今どきの傷つきやすい若者百景みたいで、これが続いたらちょっと恥ずかしくてよくわかんなくてむずいかも、と思っていると後半に白城とのつき合いにひびが入って、麦戸がどうにか外に出てきた辺りから様子が変わってくる。なぜ彼らには(我々には)ぬいぐるみとしゃべることが必要となるのか、が教訓や格言のような形ではなく、切実な叫びのように響いてくる – ぬいぐるみとしゃべるひとのしゃべることとして。

とにかく怖くて野蛮でやってらんない、支えあうとかそばにいるからとか、そんなのだって攻めてくることや耐えてがんばることを前提にしているし、なんで最後の最後に「愛」だのを持ちだしたりチラつかせたりしてくるのか。みんなうそばっかりだ、っていうちっともやさしくない世界に、ぬいぐるみを介してなんか言ってみる。そしてその表明はだいたい間違っていない。

世界なんてどうせうそとくそばっかりだし知る価値も生き抜く価値もない。知らないだけ? いくら知っても掘っても恐ろしいことしかでてこないじゃないか、というようなことをそこらの大人に言ってみ? 連中の返すことなんてぜんぶロボットみたいに同じだから。 でもぬいぐるみは、と。

ナイーブで変な若者を中心に置いた若者のドラマはこれまでも沢山作られてきたと思うが、それらの中で彼らは周囲に同調(=成長)するか、それに失敗して破滅(自殺)するかのどちらかを取るしかないようだった。この作品の主人公たちはそのどちらの道もとらなくて、その傍で彼らを見て、彼らの傍に張りついているのがぬいぐるみ、という変に歪んだ成り行きをとる映画なのだが、自分にはそんなに違和感なかった。 現代日本のクリストファー・ロビンたち。

自分のぬいぐるみ熱は過去何度か波があって、防虫剤入りの袋に押しこまれて海を渡ったりした大量の彼ら(ごめんね)が家のどこかにいるはずなのだが、自分はそんなに話しかけるほうじゃなくて、目があうとやあ! っていうくらいなので、まだだいじょうぶ。たぶん。なにが?

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