4.25.2023

[theatre] National Theatre Live: The Crucible (2023)

4月15日、土曜日の午後、『幻滅』を見たあとにTohoシネマズ日本橋に移動して見ました。 続けてみるとなかなかしんどい。

原作はArthur Millerの『るつぼ』。演出はLyndsey Turner。全4幕、休憩一回。
幕間、境界には雨が降っている(セットはEs Devlin)、水の幕で遮断されたその内側で起こった出来事。

17世紀、マサチューセッツのセイラムで実際に起きたセイラム魔女裁判 – 200名以上の村人が「魔女」として告発され、19名が処刑させられた事件に題材をとったもの。

学校の教室でAbigail Williams (Erin Doherty)ら生徒たちが明らかに奇妙な行動を取ったり昏睡状態になったりしていて、それを問題視した教会側が、魔女や魔法の存在について(他の地域での「前例」もあったので)疑念を持ち始め、その証拠を集めるために村人に聞き込みをしたり、真面目な農夫のJohn Proctor (Brendan Cowell)や彼のところで働くMary Warren (Rachelle Diedericks)らが順に呼び出されて、Hale牧師(Fisayo Akinade)らとの間で問答をしていくのだが、次々に深みにはまったり罠にかかったり、不利なことばかりが明らかになって彼ら(って誰?)の思う壺になって壊れていく陰惨なお話し。

明らかに魔女の、魔法を用いているとしか思えない事象(彼らが「…としか思えない」、という)が起こり、それらが神の庇護のもとにあるはずの我々の間で、どうして起こりうるのか? → 魔女だから/魔女がいるから。 ここの右矢印の間には怨念があり憎悪があり裏切りがあり恐怖があり、その皮を剥くようにひとりひとりを問い詰めて暴いていく過程はホラーサスペンスとしか言いようがない痛みと緊張感に満ちていて、はっきりと怖いし見ていて辛い。穏やかな日々の愛や感情を圧し潰すようにして審判が下される、というか予め用意された審判を下すために騙しや脅しを含むあらゆる手が用いられ非情な力が有無を言わさず村人たちを引っ立てていく。

ここで用いられて適用される裁判だか神学だかのロジックはものすごく変で歪んでいると思うのだが、そこを突くより先に獲物にされてしまう彼らひとりひとりがかわいそうすぎて、ああ神さま、って(← ちがう)。

一番狡くて悪いのはどいつだろう? って思った時にまず浮かんで目に入るのが教会関係者の傲慢さと裁判する側の狡猾さで、彼らはみんな自分らではなく神の代理として審理を行うので、裁きをくだすのは自分らではない - 神がそうさせるのだ、って。 ぜんぶこのロジックが貫いていて、Arthur Millerはこれを通して赤狩りの時代のアメリカを、恐怖とヘイトを煽って分断をもたらす支配者の手口を明らかにした。

このお芝居は2016年にNYのブロードウェイでIvo Van Hove演出のを見ている。
John ProctorにBen Whishaw、Abigail WilliamsにSaoirse Ronan、Hale牧師にBill Camp、Mary WarrenにTavi Gevinson、オリジナルスコアはPhilip Glass、というなかなかのメンツで、舞台は廃れて荒れ果てた教室のなか、黒板の文字が動きだしたりといったエフェクトがあるくらい、俳優の演技がすべてを引き摺りまわしてこちらに入りこんでくる凄まじいドラマで、彼らが教室で導きだした残酷な結論と荒廃 - 魔女は狩られる/魔女に関わったものもやられる - は、こちらの世界の荒れようにそのまま繋がって向こうから風が吹いてくるようだった。見終わって自分が裁かれたかのようにぐったりへとへとになったけど。

Ivo Van Hove版の掃き溜めのような世界の投げやりな置かれ方と比べると、こっちの世界はシリアスで凍える雰囲気と緊張感に溢れているものの、どちらかというと閉じて封印された過去の、きちんと作りこまれた海の向こうのどこかの土地 - 昔そこにいた彼らのいつの間にか封されてしまった声 - 録音された声のかんじが強かったかも。(なので怖さはそんなに)(なんであんなふうに閉ざされたふうに見せた/見せようとしたのか)

魔女はすぐそこにいるのだ、と確信させ、それがもたらす目の前の災禍について震えあがらせてくれないと、あるいは、魔女は極めて恣意的に魔女にされてしまうのだ、そこらのふつうの男によって、とか、その怖さが痺れるようにやってきてほしかったのだが、そこまでは行かなかったような。
 

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