4.04.2023

[film] 音の映画 Our Sounds (2022)

3月29日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
上映後に宇野邦一さんと監督ハブヒロシさんのトークつき。

映画のサイトには、”Bộ Phim: Âm Thanh Của Chúng Ta”とベトナム語があって、これを翻訳にかけると『映画:僕らの音』。 岡山県高梁市の日本語教室に集まったメンバーたちが登場して「みんな で あつまって いっしょに うた を つくる ドキュメンタリー・ミュージカル・フィルム』とのこと。(そのひらがなの、かたことのたどたどしさに寄り添いながらつくられた映画があり、それを聞く我々もその域内に取り込まれていくイメージ)

画像のない映画、ということで時間になると予告編もなしに突然電気が落ちて、正面のスクリーンは灰白色の、なにかが映り始めそうな淡い瞬きの状態(これ好き)を維持したまま、音(だけ)が聞こえてくる。最初はPCを操作している音からTV会議かなにか、向こう側に繋がって(繋がったから)挨拶しているような様子がうかがわれて、向こう側は片言の日本語を喋り、たまに疎通に困ると翻訳ソフトにタイプしてベトナム語に変換して会話が成り立っているらしい様子とか。

次のシーン(場面が切り替わったり何が見えたりするものでもないので、この言い方でよいのか)では音のトーン(というか肌理というか、その音がどういう環境のもとで鳴って響いているのかがおおよそわかる)が変わり、ひとつの部屋とか教室のようなところで直接会って話しているようで、その次には電車の音(よい音)が入ってみんなで外に遠足に行っているようだ(行先は神社)、とか。

彼らが話しをして、こちらに聞こえてくる内容はというと、好きな言葉、とか、海の向こうにいる家族のこととか、いくつかの言語が混じったシンプルな受け答えが殆どで、容易に想像できそうな異国で暮らす困難など、ストレートに個別の問題を提起したり喚起したりするものではなく(あったのかもしれないけど、編集されていたりするのか)、気がつけば遠くでかたかたリズムが鳴っていたり、言葉が鼻唄のように流れて繋がり始めたり、合図や掛け声もないままにその小さな囁きや呟きの音やノイズがより大きなうねりに取り込まれて、気がついてみればものすごく気持ちよい歌と音に囲まれている。その気持ちよさって、ヘッドホンやライブで聴く音楽のそれとはちょっと違うかんじで、でもとにかくすごくよいのでびっくりする。あと1時間、あれだけずっと流れていてもよかった。

前方のスクリーンを睨んでもなにも出てこないし、目を瞑ると寝てしまう気もしたので、スクリーンを「見る」しかなかったのだが、やはり、どうしてこんなにもこの目と頭は「見る」ことをしてしまいたがるのか、とか、リスニング・パーティとはどう違うのか、とか、そんなことを考えていた。それは普段映画を上映している場所で行われているから、とかタイトルに「映画」と入っているからではなく、「映画」の定義がどうたらでもなく、それにふれている時の知覚のありようとかその推移とか往復運動は、「映画」のそれとしか思えなかったので、これは映画と呼んでもよいのかも。

そしてそこから、これを「映画」とした時に改めて見えてくる貌のようなもの、映像をシャットアウトして初めて聞こえてくるもの/知覚されてくるものについても考える。移民の人たちの声や歌は、映像と共に示されたら果たしてこんなふうに聞こえてきただろうか、など。(あと、少し昔だと七里圭の『闇の中の眠り姫』(2007)とかもあった - けどこれとも違うな、とか)

上映後の監督と宇野邦一さんの対話は、30年代にアルトーが演劇について考えていたこと - 映像をなにかに従わせてはいけない - からドゥルーズの、見ているものと聞こえているものの共犯関係を断ち切る、という話まで、そしてやっぱり、Derek Jarmanの”Blue” (1993)への言及があり、更にリュミエールからではなく芸能 = performing arts の系譜・世界観から共同作業としての映画を捉え直す。芸能の根本はコスモロジーの回復でありストーリーを伝えるため(だけ)の閉じたものではない、と。 まとまりすぎるくらいにまとまってしまったのできょとん? ってなったけど。

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