4.18.2023

[film] Saute ma ville (1971)

4月10日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷のChantal Akerman映画祭で見ました。 邦題は『街をぶっ飛ばせ』、英語題は”Blow up my town”。

2016年の日仏学院の特集でも見ている。15歳で出会ったゴダールの『気狂いピエロ』にやられてしまった彼女が18歳の時、数カ月通ったベルギーの映画学校を中退して、自分で資金と35mm(なんとしても35mm)のフィルムを調達して、手伝って貰える知り合いを寄せ集めて、自分で演じて撮って一晩で編集して形にした、デビュー作となる13分の短編、モノクロ。

彼女が鼻唄を歌いながら外から帰ってきてアパートの階段を駆け上って部屋に入り、掃除をしてパスタを茹でて食べて、歌って(ずっと歌ってる)、猫を外にだして(猫は無事)、床に洗剤をぶちまけて掃除して、靴を磨いてそのまま自分の脚も磨いて、顔に化粧水を塗りたくり、ドアや窓の隙間をテープで目張りして、ガス栓を全開にして、紙に火をつけて、画面が暗転して.. (どーん).. そういう音はするけど、本当に吹っ飛んでしまったのかどうかは不明。

これについて、少女が自殺する話 – ずっと思い詰めていたというより、普通のことをしていてちょっと調子を崩して – これはJeanne Dielmanの正反対で、あれは傍観だったがここには怒りと死がある、とChatalは言っている。彼女の母親はアウシュビッツを生き延びたというのに、彼女は自分の部屋をガスで満たして…

デビュー作にはその作家の全てが、という通り、ここには彼女の全てがあるように思う。ひとりの女性がいて、部屋には内と外があり、彼女は部屋にいて、歌がありダンスがあり、そしてこちらを見つめている。ここから全てが始まるのだが、この最初の作品で彼女は、部屋を爆弾にして自分を含むそのすべてをぶっ飛ばしてしまう。これ以降の彼女は囚われと脱出、そこに関わる他者との出会いとそのありようを、自分がぶっ飛ばした後の破片の軌跡を、見つめていくことになるの。

5年早かったパンク、は確かにそうかもだけど、それを言ったところでどうというものでもなくて、パンクって個の覚醒だからいつでもどんな形でも起こりうるし、寧ろ今のあんなして群れをなすほうがおかしいわ、って。


News from Home (1976)

『街をぶっ飛ばせ』に続けてそのまま。 邦題は『家からの手紙』。これも2016年に見て感想も書いていた..

↑で部屋ごとふっ飛ばされたChantal - 幽霊になってしまったのか姿は映らない – が夏のNew Yorkの街を彷徨う。映りこむのはNew Yorkの街と道と駅と人、などで、そこにChantalの声で、最初のNY滞在時(71年)に彼女の母から受け取った手紙が読みあげられる。

家族の近況に加えて、もっと手紙を書いて、元気? だいじょうぶ? 送った小包は届いた? なにをしているのかわからないけど気をつけて、会いたい、などなど。 決して賑やかではない、どちらかと言えば物騒な雰囲気が漂うNYの情景に、淡々と読みあげられる手紙の声が被さる。 初めてNYに着いた頃、部屋で手紙を読む彼女の前にあった光景がこんなふうだったのだろうか。

これの前の”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975) ではブリュッセルのあの番地に刺さっていたピンが外れて、家の外にでる。でもそれでもタイトルは”News from Home”で、凧糸のように遠くから彼女を引っ張っているような。

短編の“La chambre” (1972)でひとつの部屋のなかをぐるーっとカメラは回って、その次の中編 - “Hôtel Monterey” (1973)では、NYダウンタウンのホテルのなかを彷徨って、その少し離れたところにある一点を凝視するような視点と姿勢を維持したまま、NYの通りにでる。

NYの映画となると、つい映されているのはどの辺かばかりを見入ってしまってよくないのだが、ダウンタウンの西の方が圧倒的に多くて、最後の方の10th Aveを30thくらいから車でゆっくり北上していくとこ - カメラはずっと東を向いている - とか、スタテンに向かうフェリーが島を離れていくところ - とか、その前のTimes SquareからGrand Centralに向かうシャトルのホームとか、ずっと悶えてばかりでこれってなんだろう? って。古い日本の映画を見てもたまにそうなるけど、もう消えてしまってどこにもない光景が映っていて、でもあそこに立っていたことがある、って。

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