2.26.2022

[film] 逆光線 (1956)

2月19日、土曜日の昼、シネマヴェーラの渡辺美佐子特集で2本見ました。

逆光線 (1956)

『太陽の季節』-『狂った果実』に続く「太陽の季節シリーズ」の第三篇で、今回はその女性版だそう。原作は岩橋邦枝の原作を池田一朗が脚色。『太陽の季節』の古川卓巳が監督。太陽族だのなんだの、まったく興味なくここまで生きて来たので、連中の挙動が異次元SFのように見える。

女子大生の玲子(北原三枝)には恋人(リーベ、という)の真面目な大学生の真木(安井昌二)がいて、子ども会とかの厚生組織で子供たちと遊んだりしているのだが、玲子は真木の学生服のボタンを食いちぎって(後で縫ってあげてたらおもしろい)キス(ベーゼ、という)したりしていて、その勢いで同じ女子寮の元子(渡辺美佐子)の恋人でバーでバイトしているトッポい寺村(青山恭二) とも軽く付きあったり、家庭教師のバイト先の中学生石本直彦(田中正憲)の父で船会社の重役の博彦(二本柳寛)にも覆いかぶさっていったり、なにがわるいのよやりたいようにやるわよ、の勢いが突出してすごくて、すごいな、って思っていると、最後は上高地の野っ原で水着いっちょうになってぐいぐい向こうに歩いて行っちゃうの。それだけなの。
(もう少し待ったら向こうから円盤が現れたはず)

たぶん当時はその考え方とか勢いがそのつんとした容姿と共にすごいぞ、だったのかも知れないがいろんな邦画を見てきてしまったのでそういうもんよね、しかない。 大文字で「健康」な気もする。

不満があるとしたら玲子の前に現れるのがろくな男たちではないことで、真木の退屈さは言うに及ばず、ランニング姿であんなキレのないでんぐり返ししかできない寺村にしても、金と別荘があるだけで中味空っぽなにっぽんの金持ちの典型の博彦にしても、周囲があんなのばっかりじゃぶち切れてああなるわよ。

おもしろいのは『月は上りぬ』(1955)で湿っぽくねちっこく北原三枝に迫ってべそをかかせていた安井昌二が、ほぼ同じキャラ - 伝統的な家父長男子としてリボーンしているのに対し、北原三枝は180度異なるキャラに変貌して - まるでSMの役割が交替するみたいに - 安井昌二をどつきまくっているので、それが気持ちいいったらないの。見る順番が逆だったらあれだけど。

あと、あの頃の学生さんて、みんなあんなふうに集って歌って踊って活動して、それらをあんなダンゴになって真剣に取り組んでいたのだとしたら、そりゃ疲れてやってらんないばっかじゃねーの、になるよね、とか。

あと、「静かな湖畔の森の影から」ってあんな歌詞だったかしら? ひつじとかぶたとか?


真田風雲録 (1963)

原作-福田善之、監督は加藤泰、助監督は鈴木則文、音楽は林光。カラーのミュージカル時代劇。

関ケ原の乱の頃、戦乱で親を失った、でもたくましい子供たちが彷徨っていて、彼らが透明人間になったり変な能力を持つ佐助(中村錦之助)と出会って、お霧(渡辺美佐子)は彼にちょっと惹かれて、大きくなった連中はそのうちギターを抱えた由利鎌之助(ミッキー・カーチス)に会って豊臣の方に行こうぜって、真田幸村(千秋実)に仕えることになって、風雲を呼ぶ十勇士 - 他にジェリー藤尾、米倉斉加年、常田富士男、河原崎長一郎など - が徳川に立ち向かっていくお話し。歌あり踊りあり殺陣あり忍術あり恋愛あり権力闘争あり、結末は悲劇なんだけど、それらを全部背負って振りかえらずに突撃していく無常感がたまんない。正義もくそもない。こんなもんだから、って。

戦いのシーンは低めに固定された画面に横流れしていくのがかっこよくて、でも、接近戦のぐさぐさがこないだの『忠烈圖』(1975) みたいだったらもっと素敵だったろうなー、とか少しだけ。

自分にとって『真田十勇士』と言えば辻村ジュサブローの人形劇なので(『新八犬伝』と並んで)もう一度みたいなー、しかない。十勇士って円卓の騎士とかAvengersみたいなもんなのだから、もっと海外も意識して映画化すればよいのに。

上映後の渡辺美佐子さんのトークで、元の演劇版では、佐助はずっと透明人間の設定だったので物理的に存在しなくて、その舞台を見に来た中村錦之助が気に入って彼自身が佐助をやることになり、いきなり生の錦之助とラブシーンをやることになったとか、当時の60年安保の挫折のモチーフがあったとか。女忍者くノ一の編みタイツは千田是也の考案だったのか、とか。 役に生きて、映画に育てられる、ってよいなー、えらいなー。


週末なのにぜんぜん楽しくない。 映画館にいてもなんかしんどい。

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