2.09.2022

[film] 青色革命 (1953)

1月30日、土曜日の昼、シネマヴェーラの猪俣勝人特集から2本見ました。

朝霧 (1955)

監督は丸山誠治、原作は阿部知二の同名小説(1940)。
信州のどうみても旧制松本高等学校 – 現信州大学の寮に暮らす椿普一(久保明)が冒頭、マラソンでやけ起こしたように爆走して倒れたりしている。両親のいない彼は姉彰子(杉葉子)からの仕送りでやりくりしていたが、彼女が父の友人だった倉賀(志村喬)の秘書になってから途端に羽振りがよくなったのを見てなんだかもやもやしているのだ、と。

寮の友人庄司(山田真二)は近所の林檎畑で知り合った娘菊江(青山京子)のことが好きになって、でも彼女の家は貧乏なので身売りされる話が出ていて、こちらもなんだか心配で。

西洋史の先生(土屋嘉男)から夏休み中に翻訳の手伝いに来ないかと請われて行くことにした普一の近所のホテルには避暑で滞在しにきた倉賀と彰子がいて、普一の幼馴染で倉賀の娘八千代(岡田茉莉子)も来ていて、勉強どころじゃない状態で、でも先生はお姉さんを信じろ大丈夫だと言い、他方で八千代からはちょっとあのふたりやばいのでどうにかして、と言われうわあ、ってなる。

そして、いつの間にか身売りされてしまった菊江を取り戻すべく大阪の兄の紹介でハードな現場仕事に身を投じていた庄司は..

家の事情で身売りされてしまう娘があり、弟のために秘書としてじじいに(どこまでかは不明だが)尽くさなければならない姉があり、いろんな階層にある「現実」に直面して自分らは学生なのでどうすることもできなくて悶え苦しむ若者(男)たちの青春ドラマ。こういうナイーブさがバンカラとか呼ばれて幼稚にナルシスティックにイキっていた旧制高校体質の表裏にあったことはわかるけど、結果としてなんも変えることができないまま、おやじどもは薄汚いままで戦後にっぽんを作ってそのままずっときたんだわくそったれ、って。


青色革命 (1953)

製作は藤本真澄、原作は石川達三(1952-53に連載された新聞小説)、脚本は猪俣勝人、監督は市川崑、音楽は黛敏郎。

大学を失職中の元教授の小泉達吉(千田是也)がいて、妻の恒子(沢村貞子)とふたりの兄弟 – 大学と高校くらいの順平(太刀川洋一)と篤志(江原達怡)がいて、そこの下宿人でつけまつげでオネエ言葉を使う怪しい福沢クン(三国連太郎)がいて、しょっちゅう家にやってくる親戚で映画雑誌編集部に勤める美代子(久慈あさみ)がいる。

することがないので日々ぼーっと宙を見つめて過ごす達吉(いいなー)の疲れた - オーラのまったくない背中を中心に回っていくいろんな世界 - それでも小料理屋のお須磨さん(木暮実千代)にぽうっとなってちょこちょこ通ってみたり、大学の権力抗争の傍らでじたばたする伊藤雄之助とか選挙ブローカーの加東大介とか、薄汚れた世界があったり。その反対側で若者たちは変わらず無邪気な恋と政治に生きようとしていて、革命といえばアカだった時代の、そうじゃない青いやつだってこんなふうに – そこから革命ってなにさ? という目線も含めてあれこれ転がしてみせる。

ただ最終的にはやっぱりなにがあっても家のなかで動かない動じない沢村貞子と、身軽に動き回りつつもちゃっかりしっかりの久慈あさみと、どんな男でも魚のようにばさばさ捌いていく(小料理屋=調理場の)木暮実千代と - 彼女たちがすべてを掌握して愚かものの世界を操っているとしか思えないの。

そして、そんな彼女たちの用意した穴や網から逸脱した挙動と言葉遣いでそのアルゴリズムを脱構築していく福沢クンの可能性と未来について、ほんとうはもっと語られるべきだったのかも。

スクリューボールコメディ、という言葉があったけど、社会階層間の段差や巻き込み/巻き込まれがそんなにない、フラットな世界でのじたばた – 大きな転覆なし - のアンサンブルのみだったので、スクリューボールとはちょっと違うかな、って思った。

シネマヴェーラの猪俣勝人特集はここまでだったのだが、おもしろかった。揺るがないでっかい社会の基盤や壁を前に人はどこまで裏に表に抗うことができるのか、それで結局どうなるのかを掘りつつも、それ自体が揺るがない物語としておもしろく機能してしまう不思議さ。



RIP Douglas Trumbull ..  
子供の頃にTVで見た”Silent Running” (1972)がどれだけ自分の宇宙 - SF観に影響を及ぼしたことか。いまだに夜空を見上げると、そこにはロボットをのっけた宇宙船がゆっくりと飛んでいるのだと思いこんでいて、心のなかで手を振ってしまう。
ありがとうございました。

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