2.03.2020

[film] 風の電話 (2020)

1日、土曜日の午後、新宿ピカデリーで見ました。(まだ映画泥棒のCMやってやがる)

一本くらい映画 - 日本の映画 - を見て帰りたいなー、って思って、でもそんなに見たいのはなかったのだが、午前中はシネマヴェーラで『足にさわった女』(1952)を見て – どちらかというとシネマヴェーラに行きたかったかんじ - とてもおもしろくて、午後はこれ。

諏訪監督の作品は、2年間の一時帰国の時に『ライオンは今夜死ぬ』(2017)を見ていて、その前の『ユキとニナ』 (2007)も大好きだったので、今回も当然のように見たいし。

冒頭に主人公のハル(モトーラ世理奈)は2011年の震災による津波で父母弟を失って、広島の叔母と一緒に暮らしている、という説明が出る。

ある朝、叔母があれから時間も経って復興したみたいだし一度大槻に帰ってみない? て誘うとハルは固まってしまい、学校を行くのにも叔母とハグしないと外に出れない、そういう女の子であることが描かれる。で、彼女が学校から戻ると叔母は屋内で倒れていて病院に入って、絶対安静になってしまう。ひとり残された彼女はなんでみんなあたしを置いていくのか、って泣いて叫んで工事現場でぐったり死んでいるとそこを通りかかった公平(三浦友和)に拾われて、彼の家でご飯をいただく。

そこを出てひとりでパンを齧っているいると野蛮な若者たちに襲われそうになって、そこを森尾(西島秀俊)が拾ってくれて、彼の用事に付きあってクルド人コミュニティの人たちと会って一緒にご飯を食べて、森尾の両親にも会ってご飯を食べて、彼は大槻まで行きたいという彼女に付きあって車を走らせてくれて、そんな彼自身も震災で家族を失っていることがわかって。

主人公が広島から大槻まで移動して、途中でいろんな人と出会ってゆっくりと変わっていくロードムービー、と言えばそれだけなのだが、ここには戦後から今までの日本(人)の軌跡とか記憶 - 特に後悔 - みたいのがずらりと並んでいて、それらはみんなどこかでなにかしら繋がっていて - そんなふうに見るのが正しいのではないか。

痴呆が進んでいるらしい公平の母が語る原爆で亡くなった人の骨の話、クルド人コミュニティで入菅に収容されたまま戻ってこない夫/パパの話、歳をとると生まれた場所に戻りたくなるもんだと言う森尾の親(西田敏行)、詳細は語られずそこに暮らしていた家族の痕跡(だけ)が残る森尾の家 - ハルはそこで自身の家族の幻影を見る。 みんな自分のせいではない理不尽な力(+自分のせいだと思わせてしまう理不尽さも)によって家族から引き離されて、家族は向こう側にいて - 生死は不明 - でも自分はなんとか/なんでか生きている。

辛いのは君だけじゃないんだからがんばれ、ではなくて。君の家族を想うことができるのは君だけなんだから、君しかいないのだから生きるしかないの、っていう残された者の使命のようなものが示される。 ラストで、ハルはその決意をもって風(の電話)に向かって話をする。それは吹いてくる風の流れに沿って話す(届きますように)、というより風を正面から受けて自分の輪郭を露わにして、こちらからは見えない風の源に向かって会話を重ねようとする。 そこにはもちろん電話線なんかない、絆とかも関係ない。  別れ際、彼女が森尾に自分の本当の名前を告げるシーンはとても感動するの。

『あれから』(2012)を少し思って、あれも震災が分断したこちら側と向こう側の世界のありようを描いたもので、自分自身が風になろうとする女性のお話だったことを思い出す。でも「あれから」から更に時間が経過して、みんないいかげん疲弊して、もう保てなくなってきているかんじはある。両側からの綱引きがー。
そこで唯一、教訓というか秘訣のように繰り返される言葉、生きるんだったら食べないと、が沁みる。うん、食べること。 食べることができれば。

モトーラ世理奈さんが実にすばらしい。幽霊みたいにいつも同じ服で目を腫らしてふらふらまっすぐ歩けなくて、すぐ横になってしまう。元気の反対側 - ああありたいもの。

目とか鼻から大量の汁が流れでたりするのだが、これらは放っておいてよいものなの。

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