9.30.2019

[dance] Akram Khan’s Giselle

23日、月曜の晩、Sadler's Wellsで見ました。English National BalletによるAkram Khanの”Giselle“ (2016)の再演。

いろんな点で見たかったし行きたかったやつにようやく。会場のSadler’s Wellsはダンスを中心に上演しているシアターで(ちなみにThe Fallの”I Am Kurious Oranj”の元となったMichael Clark & Companyのバレエが披露されたのもここ)、そのうちいかなきゃ、と思いつつなぜか機会がなかったところにようやく行けた、ので嬉しかった。(ここ、NYだとThe Joyce Theater、にあたるのかしら?)

この秋はどういうわけかロンドン近辺だけでも3つのGiselleがかかるそう - Birmingham Royal Balletのクラシックと、South AfricaのDada Masiloのと、Akram Khanのこれ- で、恋を妨害されて狂気に落ちて亡くなって(殺されて)、黄泉の世界まで追いかけてその恋に殉じようとする(けどそれすらも許されない)若い恋人たちの物語がなぜいま、普遍的ななにかを纏っているかのように見えるのか? というのは考えてみる価値あるかも。 なぜGiselleは死ななければならなかったのか、なぜGiselleはAlbrechtを救おうとしたのか、そういった局面で「ダンス」はどんな意味を持ちうるのか、などなどなど。

ふたりの恋を踏みつけるのはクラシック版ではのどかな荘園を管理する支配階級の貴族だったが、ここでは高い壁に覆われて囲われた工場のような隔絶・隔離された空間で、そこで奴隷のように働いているのは移民たち - 冒頭はすさまじい轟音と共にでっかい壁が降りてきて、その表面には無数の手のひらの血痕が刻まれていて、監視の網がどこまでも張られていて逃げようがない。

そこでAlbrecht (Isaac Hernández)とGiselle (Alina Cojocaru)が出会って、見るからに壊れそうな愛が生まれてGiselleは妊娠までするのだが、すぐにそれは集団と個の力学のなかで軋轢と制裁を呼んですり潰されて、という第一幕と、Giselleを追って現れたAlbrechtが精霊たちによってたかってリンチされ、Giselleによって命だけは救われるものの、どっちにしても壁の向こうに逃げることはできずに捨てられて、という第二幕と。

クラシックのプティパ版と比べると、設定からしてモダンで、それもディストピア方面に向かったモダンで、それを通してモダンのあれこれ紙一重の野蛮さ、残酷さがくっきり浮かびあがる。精霊の持っていた魔法のスティックは腹部を貫く槍となり、愛撫は常にその槍(ペニス)をかわしたり受けとめたり撫でたりの動作と紙一重で、どちらに転ぶかわからない、あと数ミリずれたらという刹那 - 生きるか死ぬか - とともにあり、誰もその原則から外れることは許されない。そしてダンスとはそもそもそういうものだったのではないか、という原理・原始への回帰。 モダンの抱えた野蛮、モダンこそが野蛮の極みではないか .. という視点は1月に見たKhanの”Until The Lions”にもあった気がする。 そしてそれを転覆する可能性は。

Vincenzo Lamagnaの音響と音楽は場内の隅々まででっかく響いて荒れまくって圧巻で、特に太鼓の音がものすごいので休憩時間にピットをのぞいてみたら、ほぼぜんぶ生楽器なのだった。そしてオリジナルのAdolphe Adamの旋律がところどころきれぎれに、霞の向こうから聴こえてきて泣きそうになったり。

来年4月にここで上演される彼の”Mary Shelley’s Frankenstein”がものすごく楽しみだねえ。

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