4.02.2019

[art] Albert Serra: Personalien

3月30日の土曜日、日帰りでマドリードに行った。
なんで行ったのかの理由はとってもバカなので書かないけど、他に候補はアムステルダムとかウィーンとかあって、アムステルダムのレンブラント祭りも魅力だったのだが展覧会のチケットはすでに一杯で、こっちにした。 朝6:30の便で経って10:55に着いて、夕方19:55発の便で戻ってくる。  あとで気づいたのだが丁度一年前の同じ日にもマドリード行っていた。

マドリードのよいのはでっかい美術館が3つ、歩いて行ける範囲に固まっているのでいくらでも時間を潰せること。今回はMuseo Thyssen Bornemiszaでの”Balthus”とMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaでのこれを見れればいいか、くらい。

Albert Serraのこの展示はどういうものなのかまったく知らずわからず調べず、でのぞんだ。
部屋の入口には黒いカーテン幕が二重で下がっていて、18禁だからね、ていう警告が。

幕をめくって中に入ると当然真っ暗で、右と左というか前と後ろというかどっちがどっちだかわからないのだが、向かい合うかたちでスクリーンふたつに投影されていて、首を右左して両方を見ることができる壁に寄りかかって、椅子もないので床に座る。両方に同じものが出ているのかと思ってみているとどうも違うやつで、音もきちんと判別できたわけではないが両方から同じ音量で出ているようだった。しばらくテニスや卓球を観戦するように両方往ったり来たり見て聞いていると、どちらも同じ森を舞台に同じような森の音、喘ぎ声が響いていて重なりあってもそんなに違和感ないことがわかってくる。 途中から入って半分くらい見て、そのままもう一回通しで見た。

どうも昨年の2月、ベルリンのVolksbühne Berlinで彼が演出してIngrid Caven, Helmut Berger等が出演した舞台”Liberté“とおなじ設定のようで、深い森の奥に2人乗りくらいの馬車の客室部分がふたつ、離れて置かれていて、それを遠くで見張っている下僕とか覗いている貴族とかがいて、覗かれる方は貴族の恰好をした男女で、馬車の中とか外とか木の切り株とかいろんなのでいろんなことをする、それだけで、吉行耕平の公園の写真集の18世紀王宮貴族バージョン(森編)、てかんじなの。

ふたつの画面の差異は構図的に近い/遠いの場合もあるし、馬車の中から見た図/外から見た図の場合もあるし、あるいは見張りが立っている場所からの彼らの目線だろうか、時間軸を少しずらして投影しているのか、とか思ったりもしたのだが、そのルールに決まった誰とか何とかがあるとは思えず、そもそもこのふたつの画面が同じ晩に起こった同じ出来事を撮って投影していることを示す証拠はないので、ふたつの画面を無理に繋いで組み立てて見たり考えたりしたりしない方がよいのかも、とも思った。 のだがどっちにしても映っているのは目を凝らさないとなんなのかよくわからないような夜の藪に映える裸とか男根とか、聞こえてくるのは男女の喘ぎ声とかムチでびしばしやる音とか聖なるお小水のばじゃばじゃとか、そんなのばかりで、朝の4時に起きてマドリードまで飛んできてこんな暗闇にしゃがみこんでなに見てるんだろ自分、とほんの少しだけ思った。

舞台の”Liberté“では舞台の広がりと距離感をうまく活かしたもったいぶりっことそれ故のいかがわしさが全開だったが、こちらの描写はよりリアルに夜の森、その闇に紛れる or 浮かびあがる「身許」がその臭気も含めて漂ってきそうで、どちらもたいへん興味深い。

戻ってWebの記事を見ていると、R.W.Fassbinderが、とか出ていて、確かに彼に似たかんじの小太りの男が出てきたのだが、そうだとしたらこれはこれでおもしろい。とってもRWFなテーマではあると思う。

美術館で上映されているのでその関連でいうと、ルーベンス~ゲインズバラを経由してクールベ(世界の起源)に至る(どまんなか)、みたいな。

これ、映画館で上映できるかたちに再構成されるのかしら。されてほしい。
あと、おもしろかったのは部屋に入ってくる人たち - 最初は見えないので手探りで、しばらく見てからなんじゃこれ、というかんじで逃げるように退出 – が繰り返されていた。まあそうかも。

この日他に見たものは時間があったらまた書くことでしょう。 が、この4月はとっても時間がない月。

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