5.09.2016

[film] SHARING (2014)

こっちから先に書く。

7日の土曜日の晩、新宿でみました。

前回、Filmexでみたときの感想はこちら。
http://talkingunsound.blogspot.jp/2014/11/film-sharing-2014.html

2014年11月に見たときも、早くきちんとした形で公開されますように、と祈ったものだったが、それがようやく実現した、ことを喜びたい。

あの当時から比べるとネットでもSNSでもその上で動くゲームでもIoTでも、ネットの向こう側の世界は爆発的に幾何級数的にでっかくなり、それと共に向こう側の世界にいるわたし、のなりすましも偽造捏造も同様に広がって、向こう側にいる自分がどんなふうに伝播したり複製されたりしているのか、誰にもわからないひでえ状態になってしまった。

更に熊本の震災が起こったことで我々は(福島の)震災「後」ではなく、震災と震災の「間」を生きていることが改めて明らかになり、更に、あそこの原発を停止できなかったことでリスクと脅威は倍加した(なにひとつコントロールできていない、というメッセージとして受け取るよね)。そしてもちろん、福島だってちっとも落着・沈静化していない。 

なんか、どう見たって、よりひどくなっている。

ふたりの女性の、本人達の知らないところで勝手に詳細化され更新されていく、途切れない夢と記憶とそれらの断片、終わらない夢、その恐怖と、でもそこに留まらねばという強い意志、思いの相克、これらの追いかけっこをサスペンス・ホラーの形式で描く、というのが大枠だとすると、彼女たちは2014年以降も夢に囚われたままずっと漂い、彷徨い続けているにちがいない、というのを改めておもう。

ていうのがひとつと、この映画はとても切ない、えぐられるような切なさを抱えこんでいて、それらに対して瑛子と薫が互いにどうすることもできないことをわかっていながらも、ではなにができるのか、と煩悶するのと同様の問いがこちら側にも来る。 この映画を見るのはそういう板挟みのなかに自身を置く、その自分を見つめる体験、でもある。

「共有」という一見ポジティブな衣を纏って暴走する集団的無意識の怖さ(それが生んでしまう自分は自分でなくても構わない、という自棄の感覚と、なぜそれが自分のところに来てしまうのかうざい、という自虐の感覚)と、それでもそれらのダイナミックに動いていく共通感覚のなかで生きなければいけない、これらの負の連鎖連携やしょうもない悪夢の連続を断ち切るにはそこにダイブするしかない、という辛さをどうするのか、ということ。
そして奇妙なことに我々はこの辛さ中でしか生きられないのだ。大切なひと(の記憶)はそこにいる/あるのだから、と。

という覚悟と決意と、あとは絶対確実にいる悪い奴らとどう戦うか、ていうところと。
デモがあんなふうに活性化していくなんて、2014年には想像もしていなかったけど、でも。

あと、もうひとつの反原発映画である『ジョギング渡り鳥』との対比でなにが言えるだろうか。
冒頭のニーバーの言葉にあった、変えられないものを受け入れる冷静さと、変えられるものを変える勇気と、それらを見分ける知恵と、これらを渡りやジョギングという運動とか行為を通して獲得しようとする試みが『ジョギング渡り鳥』で、演劇や聞き取りを通して見極めようとするのがこの映画である、と。

あと、前者がスポーツ、体育会系の映画であるとすると、これはどこまでも文系・屋内(学園)派のための映画なのだと思う。(笑ってはいけないのだが、瑛子のペンギン走りのすさまじさを見てやってほしい)
或いは、瑛子や薫は夢の間を渡り、ジョグしながらこの世界をサバイブしている、とは言えないだろうか。

上映後の篠崎監督ともうじき正式公開される『わたしの自由について~SEALDs 2015~』の西原孝至監督とのトーク、ぜんぜん期待していなかったのだが(ごめんなさい)、ものすごくおもしろく、フィクションとドキュメンタリーの狭間や映画を作ることについて堂々ど真ん中のところを語っていて、カサヴェテスの話しまで出て、よかったの。 『わたしの自由…』 も見なければ。


今週あと一回上映されるアナザーバージョンもすごく見たいのだが、今は羽田で、これからシンガポールに飛んで、金曜の朝に戻ってくるの。  連休からずっと微熱と咳が止まらなくて、今日は低気圧でまじ死にそうで、脳みそごと脱皮しちまいたいのだが、お仕事がなあー。

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